『動物に魂はあるのか』

今年5月に亡くなられた金森修氏の著作。
僕は、まだこの人の本を読んだことがなかった。


書名のとおり、「動物に魂はあるのか」という特異な問いをめぐる論争の歴史を、西洋の思想史のなかに辿っていて、このテーマに関して、古今の思想家たちの著作(もちろん著者自身の著書も含めて)への格好の導きの書ともなっている。
僕も通読して、とりあえずアリストテレスデカルトだけは、しっかり読んでおくべきだとあらためて思った。
それによると、古代ギリシャ以来、動物を感覚能力などの面で人間と同等かそれ以上の能力をもつ独自の存在として捉えていた西洋文化の流れ(p46)に大きな衝撃を与えたのは、やはりデカルトによる「動物機械論」の提唱だった。
とはいっても、デカルト自身の主張の眼目は、人間の思惟の卓越性と独自性を死守することにあり(p59)、晩年には、動物に欠けているのは思考能力だけであって感覚や情念は人間と同様に有していることを認めるなど、揺れを含んだ複雑な思想の人だったとのことだが、動物をただの機械装置として見るという「動物機械論」の発想は、一部の人たちには絶大な影響を与えた。
その一部の人たちというのは、「知的水準の高い」人々で、たとえば当時の代表的修道院の一つ、ポール・ロワイヤルでは、この論の信奉のおかげで動物になんの憐みもかけることなく、生体解剖が繰り返され、学問的研究が進められることになったという。
「動物機械論」は、人々の日常的直観からあまりに遊離したものだったために、研究のために解剖実験を行うような知的エリート層に、特に受け入れられて広まることになったのである。(p81)
それに対して、当然さまざまな反発が起きてくる。それが、動物はたんなる機械ではなく、何らかの魂をもつ存在だという「動物霊魂論」の系譜になる。
そのなかでも、とくに興味深いと思ったのは、啓蒙主義の代表ともいうべきヴォルテールの議論の紹介だ。
ヴォルテールは、「動物の苦しみ」に対する配慮や気遣いを強調し、動物を庇護する側の代表者として苛烈なまでの論陣を張ったのだが、そこにはどこかゾッとする面もあると、著者は書いているのだ。

(前略)<動物機械論>をなし崩しにし、相変わらずそれに反感を隠さないヴォルテールなのだが、そのすぐ後に続く文章が、読者にいくぶんかの衝撃を与えるのだ。彼はこう、続ける。同じ動物とはいっても互いの才能にかなりの違いがあるのは周知の通りだが、それは、実は人間同士でも同じことだ。われわれが監禁する痴呆や、食べすぎて卒中に罹り、感覚と無の中間領域で見る影もなく萎れ果て、記憶も観念もなく、愚鈍状態の中で無益な残りの人生を送り続ける老人と比べるなら、猟犬、オランウータン、秩序だった象たちの方が優秀ではないのか。生まれたばかりの新生児よりも、動物の方がずっと優れているではないか。(p142)

弱者というべき動物に対する慈愛の感情と、劣った能力しかもたないと思われる人間たちに対する残酷な否定のまなざしとの共存。
著者は、このヴォルテールの二面性の根底には、彼の<汎戦争的な世界観>と呼べるものがあると考えられることを指摘している。

われわれは一生を殺すことで過ごし、われわれが殺したものを貪り食うことで過ごす(これは人間による動物の嗜食のこと)。だが実は人間だけではなく、あらゆる動物が互いに喉を掻ききり合って過ごしている。小さな虫けらからサイや象に至るまで、この世界は戦争、罠、虐殺、破壊の巨大な場所なのだ。自分の獲物をもたない動物は存在しないし、獲物を捕らえるために狡さや怒りを用いない動物もいない。ちょうど無垢な蠅を引き付けては貪り食う、あの醜い蜘蛛のように。そしてさらに残酷なことには、この絶えず刷新される殺戮のおぞましい舞台の中に、われわれは、敵の血塗られた死骸によって種を永続させるという計画をはっきりと見て取ることができる。それらの犠牲者が息絶えるのは、それらを自然が新たに補填するのを待ってからである。すべては、殺戮によって刷新し、若返るのだ。こう、ヴォルテールは述べる。(p143〜144)

これは、「永久平和」を唱えたカントの「自然史」を想起させる思想でもあるが、著者はここに、動物の苦しみに配慮する<動物倫理>と、全生物が互いに闘い殺し合う(そこに世界の本質を捉える)反・倫理思想(優生思想に近いと言えると思うが)との合体の可能性を見ているのだ。(p145)


こうした奇妙な(というより不気味な)合体は、現代の動物をめぐる倫理学や運動の中に再び現れることになる。その代表は、『動物の解放』の著者である倫理学ピーター・シンガーであり、彼の哲学には、「動物への配慮」という心優しい動物解放の思想の面と、健康なチンパンジーと重症障害新生児との<命の価値>を比較し、前者の方を重視(選択)するというような過激な優生学的側面との、二面性があることが知られている。
この点で興味を惹かれるのは、20世紀後半からの動物解放論には二つの潮流があり、それは、とりわけ60年代後半に隆盛した(人間の)諸マイノリティについての権利主体拡張論の延長上に動物解放を位置づける<動物の権利>論と、人間のような主体や権利を有するものとして動物をとらえるのではなく、あくまで「感覚能力」をもつものとしての動物を苦痛から救っていこうとする(シンガーたち)<動物の福祉>論の立場とである、との著者の説明だ。
<動物の福祉>論は、<動物の権利>論に対する異議から生じているともみなせる。
この説明を読むと、動物を「弱者」、庇護の対象とみる啓蒙主義的な価値観が、動物(弱くあるべき存在)に対する抑圧と結びついており、それが「強者」である自己の立場・正義性を疑わない、優生思想に近似的な態度と表裏のものであるようにも思えてくるのである(たとえば、大正期の天皇制の慈愛的な性格と、植民地や東京における「虐殺」との相関性が想起される)。
本書の最後では、さらに、生命現象の総体が工学的設計の対象となり、産業資源とされつつある、現代社会の(「動物機械論」の極北とも呼べる)実態が綴られていく。それを読むと、いまや「動物の倫理」(動物霊魂論)や優生思想といった問題系は、「人間/動物」という区別を越えて、こうした「生命の産業化」とも呼ぶべき巨大な現実のさなかで、その意味を問い直されていくべきだろう、と思わされる。


最後に、著者は序章のなかで、かつて授業のなかで、「蝉が死んだ」ではなく「蝉が壊れた」というべきだ、というような表現を用いたことを反省して、次のように書いている。

命を前にした時、やはり私自身、命をもつ一個の生物として、それなりの敬意を払う必要がある。それを外すから醜い言葉になる。(p5)

著者がまだ若くして亡くなられた今、この言葉を読むと、別種の感慨にとらえられる。