『それはホロコーストの'リハーサル'だった』

先日放送された、ETV特集の『それはホロコーストの'リハーサル'だった 〜障害者虐殺70年目の真実』という番組を、録画してもらっていたものを見ました。
以下に、その感想を書きます。


この夏にやはりETVで放送された30分枠の番組の内容を元にしているのだが、新しい内容が大幅に加わり、完全に別の番組と言ってよい。
根本的には、これはナチスという特別なケースだけの問題に光を当てる内容ではなく、精神医学や市民社会、産業、そして家族といった、われわれの近代的な社会の根底に深く根を下ろしている「命の価値を選別する思想」(つまり優生思想)を告発するものになっている。
このことが重要だ。
ナチスのような体制は、それを極端化させて露呈させるものが、よく分かる内容である。
ナチスの方法の重要な性格は、その人々の潜在的な攻撃性、憎悪や差別意識をかきたてるというところにあったのだと思う。
番組のなかで引用されていた、ヒトラーの『我が闘争』の一節は、そのことをよく示していると思う。

肉体的にも精神的にも不健康で無価値な者は、子孫の体にその苦悩を引き継がせてはならない。国家は幾千年も先まで見据えた保護者としてふるまわなければならず、個人の願いや我欲などは、なんでもないものとしてあきらめるべきである。

こうした思想、あるいは情動が、T−4作戦(障害者虐殺)や断種法などの優生学的非人道政策、さらにはホロコーストにもつながっていったのだが、それは現在の日本社会を覆っている考え方や情緒と、それほど違ったものであろうか?
それも、安倍政権という特殊なものだけのことを言いたいのではない。われわれの日常の意識の問題である。
上の引用の後半は、当時はナチス国家社会主義を自称したように、自由主義を排撃する立場をとっていたから、新自由主義全盛の今とでは一見違うようであるが、社会保障を切り捨て、「価値のある生命」だけを残していこうとする基本的な態度は、同質であると感じられた。
そして、「遺伝による苦悩を子孫に残してはならない」という彼の言葉を聞いた時、「謝罪の重荷を次の世代に負わせてはならない」という今の首相の言葉を思い出したことも事実である。


はじめに書いた「根本的」な問題の方に関して言うと、番組のはじめに、ドイツの精神医学会の代表が、ナチスの虐殺に加担した過去を反省する言葉を述べるのだが、最初に「私たち医師は、かつて人間を侮蔑し」という風に言う。
しかし、本当に謝罪するべきなのは、「人間」というような一般的なものを侮蔑したなどということではなく、殺されていった人の命と尊厳を奪ったということではないか。
番組の最後の、殺害され、家族からも存在しなかった者のように扱われてきた叔母を記憶し続けようとする女性の言葉は、そのことを教えているのだ。
「人間」というふうな一般的なものを掲げれば、「価値のない命」は奪ってもよいという発想になり、それは必ず、特定の人間の命を「価値なきもの」と決め付けて虐殺していくことにつながる。ホロコーストへの展開は、そのことをはっきり示しているであろう。
近代文明には、もともとそういう、命を選別するような性格があるのではないかと思った。


この出来事を調査した歴史学者のシュムール教授という人が、施設で計画的な虐殺に携わった医師や看護師たちについて、「彼らは何年にもわたって、プロパガンダの連続射撃を受けていたのだ」と言ったことも印象的だった。
ここから分かるのは、プロパガンダとは、自分たちが日々行う殺害行為を正当化し、少しでも楽な気持ちにするために行われるものだということなのだ。
私たちが、日々受け続けているのも、その種の「連続射撃」なのだろう。


大戦中、決然として「T−4作戦」に反対する説教を行い、ついにこれを中止に至らしめた司教がドイツに居たというのは驚きだった(だが、実際には虐殺は非公然化されただけで、やむことはなかった)が、この司教や、上記のシュムール教授が共通して言っていたのは、価値づけを行わず、命そのものを尊重する思想を持つということは、(おそらくいつの時代にも)きわめて困難なことであるが、だからこそ守りぬいていかなければならないものだ、ということだったと思う。
シュムール教授の言葉を、最後に引いておきたい。

命の価値を尊重しなくなると、人を殺せてしまう。これは過去の歴史ではなく、現在にもつながっています。私たちは、人間を改良しようと考えるべきではありません。社会のなかに病、障害、苦悩、死が存在することを受け入れる、こういった意見が少なすぎます。命に関する問題に直面したとき、他人の価値観に振り回されていないか、それがもたらす結果まで想像できているかと、自分に問う必要があるでしょう。