『プラトンの哲学』(読了)

プラトンの哲学 (岩波新書)

プラトンの哲学 (岩波新書)


著者は、哲学史におけるプラトンの思想の意義を次のように語る。

プラトンは、生物としての人間の「生き延び」本能が描き出す<物>的な世界像・自然像――<物>を最基本要因とみなす世界像・自然像――を正面から原理的に吟味して、その相対化と一定の位置づけに務めた史上最初の哲学者である。「<物>的な性格のもの」の認識論的、存在論的、また自然哲学(宇宙論)的な身分・資格を徹底的に吟味し審査するための思想的闘いは、生涯の最後まで継続して行われた。(p109)


プラトンは師であるソクラテスの思想を継承して、当時すでに有力に成りつつあった『<物>的な世界像・自然像』(物質文明や科学技術至上主義の土台となる)を、「精神」の立場から批判しようとした哲学者と位置づけられるのである。
それは、生物的な生存、「ただ生きること」に執着する生の姿勢を批判し、倫理的な価値をその上位に置いた「よく生きること」を目指す思想だった。


こうしたプラトンの思想の特質は、その自然哲学にもよく現れているとされる。
著者によれば、プラトンの自然哲学は、最終的には原子論という形をとってあらわれた、自然現象を人間の生から分離して技術的な知の対象とする「<物>中心的」な世界観に対抗し、プラトン以前のギリシア思想の伝統がそうであったような、自然との総合的な関わりのなかに人間の生を位置づける態度の復興を目指したものだった。

これに対してプラトンは、万有の最初の動きは「自分で自分を動かすことのできる動」と定義されるプシューケーでしかありえないことを克明に論じ、プシューケーをまったくもたぬ火・水などの、他から動かされることによってのみ他を動かすところの<物>に対して、万有の始原としての資格を明確に否認した。(p200)

プラトンのしたことは、いったん分離されたプシューケーとソーマの観念のそれぞれをあらためて検討し直して、<物>にも適切な役割を与えつつ、しかしこの原子論による原理的な逸脱と特殊化を押し戻し、プシューケーの観念を世界観全体の中で哲学的に強化拡充して、ギリシア哲学の伝統における本来の位置に復権させることであった。(p205〜206)


本書の終盤では、あらためて著者のプラトンの思想に対する解釈の核心が、次のように述べられる。

「生き延び」原理は「ただ生きること」、すなわち人間の生物的生存の直接的な有効化を指向し、それに最も直接にかかわる<物(ソーマ)>を真実のものであり実在であると考える。他方、<精神>原理は「よく生きること」、すなわち人間にとっての生物的生存のみにとらわれないトータルな価値を指向し、プラトン自身この立場に立って、ソクラテスによる<知>のとらえ方を伸ばしてイデア論とプシューケー論の思想を中期対話篇において説明した。(p204)


では、この「ただ生きること」(「生き延び」)に対置されている、プラトン的な「よく生きること」の内実は何かというと、次のようなことらしい。

その『ティマイオス』の終りに近く、神々から人間に課せられた最も善き生をまっとうするために、「万有の調和と廻り動きを学び取ること」によって「われわれの内なる神的なるもの」への配慮あるいは世話(テラペイアー)に務めなければならないことが説かれていて、そこにわれわれは、出発点にあったソクラテスの「魂をできるだけすぐれたものにせよ」という精神が脈々と生きつづけているのを見る。(p208)


つまり、「よく生きること」というのは、なにか目に見えないような生命の部分への、『配慮あるいは世話』に結びつくものとして説明されている。
著者が、プラトンソクラテスから学んだものとして重視する、「価値」や「意味」を根底的なものとして捉える倫理的な生の思想も、そのさらに深いところでは、こういったわれわれの内外の「自然」との結びつきに関わっているのだろう。


端的に言って、「よく生きること」「最も善き生」とは、死を称揚するような思想では、もちろんない。 そのことは、著者の文章からもはっきりと伝わってくる。
だが、現在の社会では、「よく生きること」は、むしろ生の否定、「生き延び」の否定というベクトルで語られる。
つまり、著者がここで述べているようなプラトンの「よく生きること」というテーゼは、生命に対する『配慮あるいは世話』というような要素にではなく、「価値」がないと見なされるような生を「生き延び」ないという(「倫理的な」)選択に結びつくものとして受け取られることが多いのではないか。




著者は、この本の最後の方で、プラトンが否定しようとした「生き延び」「ただ生きること」という「<物>中心的」な人生観を、「快適な生」を指向する(それを倫理的な生に優先させる)態度として捉えているが、現在の社会においては、そうした没倫理的な「快適な生」への指向は、むしろ「生き延び」ることの否定、社会にコストをかけずにさっさと効率的に死んでいくことの推奨・強制に結びついていると思う。
これは、西洋ほどに個的な生への執着(コナトゥス)の思想が強くない日本社会の伝統のなかでは、なおさらであろう。
今日の社会においては、「不快」であっても生き延びようとすること、また他人の「生き延び」を強く肯定しようとする態度こそが、プラトンが重視した総合的な生(自然との結びつき)に、また倫理的な生というものにもつながるはずだ。
(著者が語るところの)プラトン的な、内なる自然への「配慮と世話」の思想は、今日の社会では、むしろ「不快さ」と「生き延び」というテーマの方に親和的だと思うのである。