『金枝篇』

金枝篇(全5冊セット) (岩波文庫)

金枝篇(全5冊セット) (岩波文庫)


春先から読み始めて、まだ途中ですが、ちょっとメモ的に。


フレーザーの『金枝篇』は、古代社会について書かれたものとして考えると、今では学問的にはさまざまな難点が指摘されるだろうが、これを現代社会の深層にある欲望のようなものを抉った書物として捉えれば、多くの卓見を含んでいると思える。
その核心をなすと思えるのは、宗教や形而上学からの解放の願望である。
オーギュスト・コントは、大雑把に言って、歴史を、宗教の時代、哲学の時代、科学の時代の三段階に分け、前二者における形而上的なものの支配に抗して、人間が自力で社会を形成する三つ目の時代として「現代」を捉えていたと思うが、フレーザーの考えも、それに重なっているといえる。彼は、呪術を宗教以前のものと位置づけ、呪術と科学の二者を、いわば人間の自力による営みとして、宗教(形而上学)の支配に対立せしめるのである。
純粋な「科学=呪術」による社会。そこでは、宗教の支配とともに理念的なものの介入(私はそれが「近代」というものの一つの重要な意味だったと思う)からも逃れた、「人間の無意識」の王国のようなものが展望されていると思える。
そういう思想の書として『金枝篇』を読むと、たとえば第六十章の初めの所に書かれている、本書の中心的思想の一つである「神(王)殺し」としての「人間供犠」の風習についてのフレーザーの解釈は、たいへん興味深いものだ。

彼らが認めうる最悪のことは、病弱老衰のいずれであるかを問わず、その統治者の自然死なのである。(中略)このような破局を避けるためには、王の神人性がなお満開の状態にあるうちに彼を殺して、その神的生命をくもりないままにその後継者に伝えることによって若々しさを更新せしめ、こうして活力に満ちた受肉の永続的な系統を通しての相次ぐ継承により、人間と動物が同様に永続的な世代の継承によってその若々しさを更新し、種蒔きと収穫、夏と冬、雨と日照とが決して失敗することのない担保と保証とを永久に新鮮で若々しくして置くことが必要になるのである。(岩波文庫版第四巻 p214〜215)

ここには、現代社会の根底にある優生思想的な欲望、つまり死後の世界についての信仰がもはや失効してしまった時代において人々が抱く「不死」「不老」への度し難い欲望の持つ暴力性が、生々しく語られているように読める。
それは「病弱老衰」による「自然死」への、観念的で暴力的な否認の欲望である。
これはまったく現代的なテーマといえるが、すでに20世紀の初頭において、フレーザーはそれに触れていたのだ。


また、超越的なものや理念的なものが力を失った現代社会の傾向の向かう先は、存在よりも意識の方が重視されるような世界観、ということになるのではないかと思う。
こうした社会では、意識は、体験が「経験」へと構成されることによって外部の現実を参照可能になるための手掛かりを得ることができない。
意識は、経験へと構成されることなく、ただ断片的なイメージの連続のようなものとして過ぎ去り続けるだけであって、われわれは呪術的世界を生きた人々と同様に、そうした生の孤独な(せいぜい共同体内的な)体験に閉じ込められて生きることを余儀なくされているといえる。
こうした意識と社会のあり方を、フレーザーよりもさらに掘り下げて検討した人はカッシーラーだろうが、それはまったく現在のネット社会の原理だとも思えるのだ。
たとえば日本でいうと、安倍政権の成立も、そうした社会状況と無縁ではないだろう。
そこから逃れることは可能であろうか?
われわれは、「意識」の原理に還元されない、存在と生存の実質を生の体験の中に取りもどせるだろうか?
「近代」という理念のタガを失って共同体的な暴力と憎悪と犠牲の情動に動かされるままに、かつて呪術的社会の人々がそうだったと考えられるように、やがて(それこそ安倍清明のような)支配的な大呪術師によって統合され、再び狡猾な形而上学の支配の下に服していくしか道はないのだろうか?


金枝篇』は、私にはそうしたことを考えさせる書物である。