希望の牧場

福島の「警戒区域」とされた場所で、数百頭の牛を飼い続けている、吉澤正巳さんの、いわゆる「希望の牧場」(この名称は、吉澤さん自身が付けたものではなく、ここを訪れた人たちがそう呼ぶようになったものらしい)のことを描いた絵本を、見る機会があった。

http://www.ehonnavi.net/ehon/104746/%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%AE%E7%89%A7%E5%A0%B4/


吉澤さんの言葉に材を取った森絵都さんの文章はもちろんだが、僕は、吉田尚令さんが描いた絵に、たいへん強い衝撃を受けた。
それはまさに、「突き刺さる」という感じの体験だった。
http://ameblo.jp/bokurano-ehon/entry-12000012607.html


以下に、この絵本を読んで考えたことを、蛇足ながら書いておきたい。


「家畜」にせよ「ペット」にせよ、人間は他の動物の生命を奪ったり管理したりするという暴力を行使することで日常を営んでいる。
それと人間同士の関係との違いは、ただ人間同士の場合には必ずしも一方的・非対称な関係になるとは限らない(つまり、被害者も加害者に転じうる)ということだけだろうが、いまそうなりつつあるような極端な階級社会では、その相違も怪しいといえる。
だがともかく、意識や高度な知能と技術をもつ存在としての人間は、他の動物に対して上記のような一方的に暴力的な関係を、仕組みとして日常のなかにもちながら生きているのだ。
そしてまた、その暴力は現代の社会では、より大きな力によって私たち自身に差し向けられ、それを他者に対して行使することを命じられているものでもある。
原発事故とは、そうしたわれわれの日常の暴力性を中断させたり破壊するわけではなく、むしろ逆に、その暴力性の本体みたいなものがむき出しとなり襲いかかってくるような出来事であると思う。
国家や国際社会や大資本といった大きな機構が、各人に他人や他の生き物の生を管理させる「家畜制度」のような中間的形態を経ずに(それらが一時的に不全となったため)、直接に管理の暴力性を行使して来る。原発事故のような出来事がもたらすのは、そういう事態だと考えられるのだ。
吉澤さんは、それに対して、国による「殺処分」や廃業の命令に逆らう、という仕方で抵抗した。つまり、「理不尽な力によって命じられるがままに他の生き物の生命を奪うことはしない」という意思を行動によって具体化したのだ。
それはまた、「私は私の日常を、誰にも命令・管理されることなく(他の生き物たちと生死を共にしながら)生きる」という意思の表明でもあるだろう。
そこでは、奪われた暴力的な日常が、その暴力性のままに顕在化され、むき出しであったりなかったりする国家の大きな暴力を告発し、抗っている。
そのことで、吉澤さんの行動は、生産者に家畜の殺害を押しつけ、また福島に原発を押しつけ続けてきた、私たちの日常の暴力を明るみにし、そして自律的で共生的な日常というものの真の尊さとは何かという問いを突き付けていると、僕には思える。