『病いの哲学』から

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)


「はじめに」によると、この本に書かれた思索は、出版の前年に亡くなられた著者の母との関わりのなかで練り上げられたものらしい。

(前略)病人の回復を願うことは、たんに明日天気になることを願うことでもなければ、たんに薬を投与しその効果を期待することでもない。何か別のことが含まれている。実際、病人の回復を願うときに、何を願うかをよく顧みてほしい。うまく行く場合であっても、元通りにならないことを知りながら、悪くならずに良くなることを願っている。それは必ずしも、最良の状態を求めることではないし、より良い状態を求めることでもない。そうではなくて、病人の回復を願うときには、病いで不可逆的に変化してしまったであろうその肉体が、軋轢や攪乱を起こすことなく、それとして完成された状態として落ち着くことを願っている。不可逆的に死へと傾いていく生の傾斜において、暫定的であってもよいから、あるプラトー(平面)が生ずることを願っている。ここに、現実を信用することが関わっている。(p166)


この箇所は、ほんとによく分かる。
うちの母の場合も、様子を見ていると、寝込んでしまう前の状態に復するということは、どう考えても無理である。それでも、「良くなってほしい」と願っていることを自覚する時がある。
そのとき、「良くなる」というのは何を思い描いているのかと自問してみると、結局ここに書いてあるようなことだと思う。「寝込んでいる状態」とか「前より動けなくなってる状態」であっても、その状態なりに小康状態(プラトー)が訪れてほしいと、願っている気持ちが、たぶん核心的な部分である。
死や衰えは、必ず訪れるものである以上、その状態は「暫定的」であるしかないわけだが、それでもその状態にこそ、何かもっともかけがえのない、「信じる」に値するものがあると、考えている自分がいる。