子規の看護論

正岡子規が脊髄カリエスのため病床からまったく動けなくなった時期の随筆は、いま岩波文庫でそのすべてを読むことができる。
ぼくはこの一連の文章が昔から好きなのだが、母親の介護をするようになってから、少し別の視点で読めるようになったところがある。
『病床六尺』のなかから、「看護(介抱)」ということについての考えを書いている部分を引いてみよう。


子規は、その晩年(といっても三十代半ばで亡くなるが)、もっぱら母と妹(律)の二人によって介護されていた。もちろん、自宅においてである。
7月16日の日付がある六十五で、病人の苦楽にとっての最大の問題は、「家庭の問題」、すなわち「介抱の問題」である、という記述が出てきて、それから数日この話題となる。そして、自宅で介抱にあたるのは結局「家族の女ども」であり、病人の介抱のためにこそ、教育は女子に必要である、との暴論を吐く。
子規の女性蔑視的な考え方は、当時の時代状況を考慮しても、やはりひどいものである。これは、この人の大きな特徴であるエゴイズムの、もっともよくない面が出ている部分だと思う。


ところで、7月20日の日付がある六十九には、次のように書いてある。

病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱といふのは看護人が同情を以って病人を介抱することである。形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱ふ事で、(中略)始終病人の身体の心持よきやうに傍から注意してやることである。


こう分けた上で、子規はこの二種の介抱が同時に得られるにこしたことはないが、もし一つを選ぶなら、「精神的」の方であると言う。
プロの看護婦の看護(形式的)とは、「病人の介抱」は違うのだ、というのである。

病人を介抱するといふのは畢竟病人を慰めるのにほかならんのであるから、教えることも出来ないやうな極めて些末なる事に気が利くやうでなければならぬ。


そして、例としてあげられる事柄は、ほんとうに繊細な気配りを必要とするようなことである。介抱する者は、病人が自分をうるさがっているか、人恋しがって自分にいて欲しいと思っているかも察して、そのように行動しなくてはいけない、と書いてある。
子規は、そのようなことができるのは多くの場合、病人の家族に限られるだろうが、それも実際には、それができる者が少ないと慨嘆し、次のように結論を書く。

一家に病人が出来たといふやうな場合は丁度一国に戦が起こったのと同じやうなもので、平生から病気介抱の修業をさせるといふわけに行かないのであるから、そこはその人の気の利き次第で看護の上手と下手とが分かれるのである。


これは、子規は妹の介護(介抱)に対して、非常に強い不満を抱いていたらしいので、そのことが示されている文章でもあるだろう。
「精神的介抱」というのは、たしかに家族にしかできないもののようにも思えるが、逆に家族だからこそ感情のこじれが生じたりして難しいものだということも、子規の随筆、日記を読んでいると思う。


その数日後、7月24日の日付がある七十三の記述には、この、家族と介護ということに関して、ちょっと面白い内容が書かれている。
ここでは、ある人が言ったという、『家庭の事務を減ずるために飯炊会社』を作ったらどうか、という考えが推奨されている。
その理由は、女が家事をしながら病人の介抱をするというのは荷が重すぎ、介抱を優先しなくてはいけないときに、家事を先にやってしまったりするからだという。つまり、介抱をちゃんとさせるためには家事を外注すればいいではないかという、自分本位ながらも大変合理的な言い分ではある。
ちょっと引いてみよう。

人手の少なくて困るような時に無理に飯を炊かうとするのは、やはり女に常識のないためである。そんな事をする労力を省いて他の必要なる事に向けるといふ事を知らぬからである。必要なる事はその家によって色々違ふ事は勿論であるが、一例を言へば飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、よほど飯は美味く喰へる訳である。
病人のある内ならば病床について居って面白き話をするとか、聞きたいといふものを読んで聞かせるとかする方がよほど気が利いて居る。


もちろん、看護にせよ家事にせよ、別に女性がしなくてはいけないことではないというのが今では常識だろうから、そこははずして、この言い分についてかんがえてみる。
まず、看護を優先するか、日常の家事を優先するかの判断ができないというのは、ぼくには耳の痛い話である。たしかに、そういうところの臨機応変というのは、出来る人と出来ない人がいると思う。
ぼくの場合、異常に出来ない方である。仕事をしていてもずっと感じてきたことだが、臨機応変とか、状況判断とか、そういうことがひどくできない。
そして、「出来ない」とおもえば思うほど、余裕がなくなり、そこを病人に何か言われると荒く冷たく当たったりする。つまり、「出来ない」ということ、そしてその自信のない意識が、感情に殻をかぶせるようにして、過剰な冷淡さを生じさせたりする。
子規は、妹について、強情で不器用であるといい、夫と離別していることも引き合いに出し、言葉の限りにあしざまにののしったりしているが、これは近親間の感情のもつれということもあろうが、妹がやはり看護が不得手なタイプの人で、自身認めているように病床についてからはひときわ感情を高ぶらせることの多かった子規との間に、修復しがたいほどの軋轢が生じてしまった、ということではないかと思う。


ところで、ここで子規が「必要なる事」としてあげている内容が、たいへんユニークであると思う。先の引用でも感じられたことだが、細やかな配慮や愛情の感じられることをもっとも大事なこととし、「形式的な介抱」よりも、その目に見えない部分を得るためにこそ、「飯炊会社」のようなものを導入して合理化を図れ、ということである。
ここは、子規は、自分勝手ではあるが、とても大事なことを言っているように思う。


彼はとにかく自分に最大限の愛情を注いでくれることだけを、肉親である看護者に求めたのであろう。残された一連の随筆に記された子規の病と、病との闘いの壮絶さを思えば、無理からぬことだとも思う。
先にも書いたように、子規は文章においては、たびたび、とくに妹の悪口を書いているのだが、実際のところは、子規のその願望が満たされたか、満たされなかったのかは、わからないところがある。


病牀六尺 (ワイド版 岩波文庫)

病牀六尺 (ワイド版 岩波文庫)