労働しているだけで困窮者を救うことにつながる、という言説について

前回のエントリーに対するnatamaru氏のコメントだが、本人は、『あまりの怒りで手が打ち震えてきます。』とか『何度読んでも怒りが湧いてきますな。』とか書いてるが、何度読み返しても、「怒り」の感情がまったく伝わってこない内容である。
想像された他人 (彼が言う「勤労者」の人たち) の人生の体験や、自分の感情までダシに使って、相手の迷惑を顧みず、自分の空疎な主張とレトリックの手際をこれ見よがしに開陳する自分本位さは、今に始まったことではないが、呆れるしかない。
この人による被害が、これ以上拡大しないことを、本心から願うばかりである。


さて、それとは直接関係ないのだが、表題のこと。
これは無理な理屈のように思えるが、意外と人をひきつけてしまいがちな言い分である。


労働することが世の中を豊かにすることや、技術の発展にもつながり、そうなることによってだけ困窮者の救済は可能となるのだから、無駄な社会運動やボランティア的なことなどせず、要するに社会の仕組みや秩序を疑うようなことはせずに黙々と日々の仕事に勤しんでいるのが一番「困窮している他人」を救うためにもなるのだ、という言い方がある。
前回のエントリーで書いたように、現状がその考えが正しいといえないことを示していると思うのだが、上記のような主張をする人は、そういう現実は見ないことにしているらしい。前回も書いたことなので、ここではそのことには触れない。


ここでとくに考えたいのは、次のようなことである。
上記のような他人の行為や思考を押さえ込もうというルサンチマン的な物言いとは別に、実際のところ日々の賃労働や家事労働に追われて、「他人を救うために何かがしたい」という気持ちがあっても、その時間も余裕もないという人は大勢いるだろう。そして、そうでなくても、自分がしたいと思う行為、自分がするべきだと思う行為を、理由のあるなしはともかく、していない人、出来ずにいる人というのは居るものである。
その人たちにとっても、「自分が今している行為」が、そのままで「自分がするべきだと感じている行為」につながると思えるのであれば、それは気持ちの疚しさのようなものから逃れる道になる。だから、「自分が働いていること」が「他人を救うための行動をしないこと」を正当化してくれる論理があるのなら、それを信じたいと思うのも、人情といえるかもしれない。
ともかく自分(や自分の家族)が生きていくことが、この世界をよくすることや、他人を救うことの基盤となる、少なくともどこかで重なっているはずだ、という考えである。


だが実際のところ、そうスッキリと信じられればいいのだが、いくらなんでもこの言い分には無理があるというのは、多くの人が感じているのではないかと思う。
たしかに、これは「無理な」主張だと思うが、ではどういう意味でそうなのか。


自分が働いているという行為を「A」とする。他人を救う行為を「B」としよう。
AがそのままBに重なるという、「A=B」という等式を、ここでは正しくないと考えるわけだが、それはなぜそう言えるのか。というより、なぜそう言うべきなのか。
Aは「自分が生きていくための利己的な行為」つまり「手段」であって、Bは他人のためになされる行動いわば「目的」だから、両者は異質であり、重ならないと考えるべきか。
だが実際には、たとえば「他人を救うという行為」が、そのまま生計のための仕事になる、すくなくとも仕事のなかのある部分を構成するということは珍しくないだろう。
また、はじめに書いたような「経済の発展や技術発展が人を救う」という言説も、それが他人の行動の足を引っ張る意図でなされるなら反駁されるべきだが、たしかに表面を見ればそうしたことで人が救われる場面があるということは否定できない。
つまり、この意味ではAとBとの境界は判然としない。


「A=B」と考えることが「偽」である理由、その核心は、非常に単純なことだ。
それはたんに、Aは「いま現実に私がしている行為」であり、Bは「私が(するべきだと思っていながら)できずにいる行為」だからである。
「現実にしている行為」と「やるべきだと思っていながらできずにいる行為」とは、端的に異なる。
この二つを同じとしてしまうことによって消されてしまうのは、言うまでもなく、「私は他人を救うことができずにいる」という無力さの実感だろう。
この無力さの実感が消えたとき、他人と結びつくことだけで確保される私の「可変性」は失われる。つまり、私は、それが「現実」だと教えられている世界のあり方のなかに、すっかり吸い込まれてしまう。


そして考えてみると、「A=B」という、この偽の等式によって自分の現在の行動や状態に自足してしまい、他人への関心を通して自分を変えていくための契機となるはずの「不安定な気持ち」(「自分はやるべきことをやっていない」)を閉ざしてしまうという危険は、別に労働の場だけではなく、これまでのエントリーで書いてきた「間接的な行動」においても、「直接的な行動」においても、同様に生じるものだろう。
「自分はやるべきことを十分にやれていない」という不安定な気持ちに蓋をするようになったとき、どのような行動(生のあり方)も、他人との関わりの契機を失い、そのことによって、「無力な私」への実感、生の「力」のようなものを失う。
そういうことを、実はこちらの優れたエントリーを読みながら考えた。


だが、困窮している他人の存在という、この社会の現実に、正直に向き合っている人ほど、「自分はやるべきことを十分にしていない」という「不安定な気持ち」を否認することは、困難であるはずだ。だから、そうした人ほど、自責の念に襲われることは多いはずで(そうでない人もいるかも知れんが)、一方でその人は、自分の「不安定な気持ち」(疚しさ)を否認することに躍起となった人、その不安定さを他人への攻撃に転嫁することに夢中となるような厚顔な人たちからの非難や揶揄にもさらされるという、気の毒な構図になりがちだ。
まことに理不尽な話ではある。