差別についての微妙でないこと

うちでとってるのが毎日新聞なので、いつもこの新聞への文句を書くような形になるのが申し訳ないが、これもどう考えても変な内容の記事である。
「余禄」という朝刊の1面に載ってるコラム(16日日曜付け)。


余録:人種と性別http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/news/20080316k0000m070114000c.html

 おそらく、米大統領選でヒラリー・クリントン上院議員の勝利をだれよりも願う女性はジェラルディン・フェラーロ元下院議員だろう。24年前、女性初の副大統領候補(民主党)に選ばれたが惨敗した。果たせなかった夢を後輩に託す▲バラク・オバマ上院議員について「もし白人男性だったとしたら、いまの地位にはいなかっただろう」と発言した。「オバマ氏が優位に立つのは黒人男性だから」つまり「政策や資質は問題にされていない」という意味になる。クリントン氏は「この発言を拒絶する」と非難した▲一方、オバマ一家が通う教会の黒人牧師ジェレミア・ライト師は黒人蔑視(べっし)の表現をあえて使って、人種差別をしかった。「金持ちの白人が支配する国に生きる黒人が何を意味するかバラクはわかっている。だがヒラリーはニガーと呼ばれたことなんかない」。オバマ氏は「扇動的ないいかたを拒否する」と述べた▲肌の色とジェンダー(社会的性差)。この二つを語る時、米国人は差別主義者と非難されないよう、常にことばを選ぶ。だが、何が政治的に正しい表現か、時と場所で微妙に違う。ダメージが広がらないよう両候補者は代わりに謝った▲黒人ゆえに選挙で有利なのは不公平だ、という不満がフェラーロ発言だ。白人だから得をするのは許せない、という怒りがライト発言だろう。当の2人は謝罪しない。差別のない平等社会をいくら誇ろうとしても、白人女性と黒人男性の対決となると、支持者の本音が噴き上がる▲同じ民主党なのにこれほど行き違いがある。本選になれば文化戦争はもっと燃え盛る。米社会に潜むマグマはやけどするほど熱い。


『だが、何が政治的に正しい表現か、時と場所で微妙に違う。』というもっともらしい指摘を、この例にあてはめるのは、出鱈目というものだろう。
そもそも、記事の中ほどに、「肌の色とジェンダー(社会的性差)」と書いてあるが、どちらの発言でも、ジェンダーには言及されてないのである。
「差別」が問題になる場合、その人のどの属性が差別を受ける対象になってるのかということが、ひとまず考慮されるべきだろう。
ヒラリーやフェラーロの場合には、ジェンダーがその要素となり、オバマやライトの場合には人種的なものがそれになっていると、この記事の文脈では考えられる。
ところが、どちらの発言でも、問題にされているのは「人種」の方なのである。



「差別的」な言動とは何を指すかといえば、この場合に即して言えば、社会のなかで優位にある属性を持つ側が、不利な位置にある属性を持つ側を、その(当該の)属性に関して非難したり揶揄することがそれにあたる、というのが定義である。
フェラーロ発言では、社会のなかで優位にある人種上の属性を持つ人(白人)が、不利な位置づけをされている属性を持つ人(黒人)を、「その属性に関して」揶揄している。
ここに引用された語句から判断すれば、この発言は「差別的」と呼ぶべきものだ。
一方、ライト発言では、社会のなかで不利な位置づけをされている人種上の属性を持つ人(黒人)が、社会のなかで優位にある属性を持つ人(白人)に対して(しかしもっぱら自分たち黒人の側についてなのだが)、「その属性に関して」批判的な論評を加えている。
これは、もしかすると「誤」であるかも知れないし、またアンフェアな攻撃である場合もありうるが、少なくとも「差別」ではない。
「逆差別」という不思議な日本語もあるので、念のために言い換えておくと、この二つの発言の性格は、対称をなしてはいないのである。
社会のなかで優位にある側の属性をもつ人間が(その属性に関して)言う言葉と、不利な属性をもつ人間の(同様に)言う言葉とは、現実には同じ力や内実を持つのではない。
それを考えることが、「差別を思考する」ということである。
もちろん「差別的な暴力」が、「差別的でない暴力」より必ずひどいとは限らないが、それでも「差別的な暴力」の有無や強弱があるということは変わらないのだ。
だから、フェラーロとライトの発言は、決して「どっちもどっち」ではない。


ありていに言えば、一方(フェラーロ発言)では、白人が黒人に向かって「黒人に生れて良かったね」と揶揄しているのだが、もう一方(ライト発言)は、決して男が女に向かって「女に生れて得したね」と揶揄してるわけではない、ということである。
だから、フェラーロ発言はたんに差別的なのであり、ライト発言はたんに差別的でないのだ。
「票の動向」を考慮したり、その他の理由で、両候補がどんな対処をする(した)かに関わりなく、「差別的」ということについて言えば、ここには「微妙」なものなど何もない、ということである。


なぜこんな分かりきったことをくどくど書いたかというと、こうした曖昧な対比によって、差別の問題の「微妙さ」や複雑さ、要するに解決不可能であることを暗にほのめかすような(このコラムの)論調というのは、実際には差別的な現実を容認する働きをしてしまうものだからである。
ここで例にあげられているような事柄についてなら、差別的であるものは明確に存在するのであり、したがってそれは正していくべきなのである。
そうした闘いに限っては、アメリカは日本の社会よりも、はるかに真剣な実践を重ねてきているはずである。「差別のない平等社会」を信じる気持ちが、まだアメリカの市民の間にある分だけは、われわれの社会よりもアメリカ社会の方が、まだしもその実現に近い場所にあるのだと思う。