ベトナムの女性

ゆうべNHKで、女優の香椎由宇ベトナムに滞在して、雑貨品を作っている工房や店をめぐって話を聞くという番組(たぶん)をやっていて、最後の10分ぐらいだけ見た。
すごく良さそうな番組で、全部見ればよかった。


そのなかにベトナム戦争が終わったときにボートピープルとしてオーストラリアに逃れ、2年前に母国に帰ってきて今は雑貨品を扱っている女性が出てきた。
戦争が終わった直後は、南側の市民に対する北側の兵隊の暴力や略奪が横行したり、また難民としてたいへんな苦労をしたけど、今になって思うと統一されて良かったと思う、と言っていた。


ベトナムの場合は、戦争の末の統一という不幸な形をとった。それでも、あれは「解放」だったと思う。「北の立場から見れば解放」という相対的な話ではなくて、やはりアメリカの支配から抜け出して、不幸な対立と分断の状態を克服したという意味で、たしかに解放であった。
しかしそれは、個々の人生とは別の「真理」だ。解放という、相対化されることのない「正義」(善)が、個々の人生を救うとは限らない。むしろ、たくさんの悲劇をもたらす場合がある。個々の人生は、個々の人生の名において救済されるしかない。


大文字の「正義」や「歴史」が、個々の人生を押しつぶすことが許されてはいけない。だが同時に、個々の人生を名目にして、「正義」の遂行が阻まれてもならない。
この場合の「正義」は、じつは「大文字」ということではなく、個々の人々が生きる条件、土台のようなものに関わる。覆い隠され侵害されているその土台を、人々の手に取り戻すということに関わっている。
だがこの「正義」が現実の意味を持ちうるのは、個々の人々の生の救済の実現によってだけである。
番組に出てきた女性の場合、個別の人生の救済は、かろうじて「解放」(統一)という(かつての)「正義」の遂行を意味あるものに、つまり現実的な「善」にしたと言えるのかもしれない。


このかつてボートピープルだった女性は、最後に「幸せな時のことだけを思い出すようにすれば、好い人生だったと思うことができる」と言っていた。
そういう回想の工夫をしなくてはならない人は、やはり余りにも辛い体験をしてきたのだろうと思った。