義憤以前のもの

大阪市長選は現職の関氏が落選し、平松氏が当選。
正直、これによって野宿者問題をはじめ事態が好転していく保証はないと思うが、なにせ今までがあまりにもひどい市政だったので、それに対するNOの意思表示がなされた形になったということは、(ぼくは大阪市民ではないが)喜びたい。
投票率のアップが如実に示しているように、今回の首長選は有権者にとって、選択肢のある選挙だったということは言えよう。
ところで、関氏の落選について、ちょっと感じたことがある。


この市政は、これまでの市長が踏み込まなかった市職員の人員削減や、労働組合の体質の問題、また同和行政の見直しといった事柄に積極的に取り組んでいた、とされる。
しかし、それは有権者にはあまり評価されなかったようである。
これは、「改革」の是非ということを表わしているのではないだろう。
問題は、関氏自身が、これまで労働組合との協調や同和行政の枠組みのなかで自らの権力を保持してきたことである。それを、こうしたことが世間で槍玉にあがった途端、トカゲが自分の尻尾を切るみたいに、それらへの批判・切捨てを始め、自分は「改革の遂行」を口実として、権力の座にとどまろうとした。
関氏が、「改革の必要」をほんとうに信じるのであれば、まず自分が政界から完全に身を引く以外になかった。辞任して、再出馬せず。それ以外の選択はなかったはずだが、そうしなかった。
ここで、この人の言う「改革」という言葉が、一般の人たちには評価するに値しないものと判断されることになった。関氏は、いわば「改革」という一つの言葉を殺してしまったわけである。
人々がここで感じたものがなんだったかというと、言葉と言葉を支える人間との現実的なつながりが損なわれるみたいなこと、空洞のような社会が到来することへの不安感ではなかったかと思う。それが、関氏への「NO」とまでは言えなくても、信頼しないことの表明の漠然とした背景のひとつになったのではないか?



そこで思い出したのだが、同じく大阪市に関係することで、最近マスコミを賑わせている船場吉兆の問題。
ここで一番槍玉にあがってるのは、経営者による「パートがやった」発言だろう。
格差社会が言われ、非正規労働者の労働条件が問題になっている時期だから、この発言が批判されるのは当然だ。
だが、この言葉のなにが一番問題にされてるのかというと、それは現実にパート労働者を雇用しているにも関わらず、あたかもそれが自分たちが選択したことではないかのように言い逃れる、その煮え切らなさではないだろうか。
船場吉兆は、現実にパート労働者を雇用して業務を行うという経営の選択をしたわけである。それなら、パート労働者が何をなすかの責任は、ひとえに経営陣にあるとも言える。法的、経営倫理上の問題ではなく、もちろん「言った、言わない」の問題でもなく、それ以前に、非正規雇用を雇うという自分たちの選択をきちんと引き受けてない、という印象を多くの人は持ったはずである。
競争が激しいし、もっと金儲けもしたいから非正規雇用を雇った。市場が競争原理に支配されてるのは経営者個々の責任だけではないから、パートやバイトの給料が安かったり、待遇が悪かったりするのは、ある程度仕方ない場合もあるかもしれんが、そういう立場の労働者を雇うことで生き残るという選択をした以上、つまりそこで「手を汚す」という道を選んだ以上、「現場のせいだ」という言い訳はしてはいけない。批判されてるのは、そこのところだと思うのだ。
自分が現実に行った過去の行為、選択を、なかったことみたいにして、すべて他人のせいにして言い逃れる。それが通ってしまったのでは、言葉を喋っているその人の存在、選択したりしなかったりして社会のなかで生きている個々の人間の存在が、掻き消えてしまうみたいになる。
世間の人たちは内心で、そういうことに不安や苛立ちを感じているのではないか。


つまり言いたいことは、関氏や船場吉兆の経営者の言動、行動に対して人々が抱いている感情は、なんらかの具体的な「義憤」ということ以前の、何か形のない大事なものが掻き消えてしまうのではないかという漠然とした不安、苛立ちではないかということである。
それはもちろん、不正義に対する怒りへとつながっていく可能性のあるものだと思うが、それよりももっと流動的な(つまり、反動にも容易に転化しうる)、原初的な不安、この社会が決定的に損なわれていくことへの警戒感のあらわれであると思う。