「多文化共生」考

tu-taさんが紹介されている、『制裁論を越えて』という本の内容。
http://tu-ta.at.webry.info/200710/article_11.html


「多文化共生」論というものが、植民地主義を問題にしないような形で語られているということへの批判がされてるとのこと。
この点について、少し思うことを書いておきたい。


「多文化共生」という言葉は、いま総務省文科省も、この言葉を使って政策の推進を図っているようである。
http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/060307_2.html

日本の政府はもちろん自国の植民地支配についてまともな反省も補償もしていないと思うから、「植民地主義からの脱却」という観点からかんがえるなら、この「多文化共生」論というもののなかに、どこかしら怪しげな部分、不十分な部分があるというのは、いわば当然だろう。
そういう要素のある言葉だから、政策の言葉として選ばれている。そう考えられるのである。


ただ、押さえておくべきなのは、「多文化共生」のような行政主導の言葉が、在日外国人にとっては社会のなかで生きていくための貴重な武器でありうる、ということだろう。
つまり、日本の現実の制度のなかでは、この言葉を用いることによってその人たちの最低限の権利が保障されるということがある。それで十分であるとはとても言えなくても、生存・生活の保障や権利を求めて日本の行政と交渉をしようとするなら、「多文化共生」という行政が掲げている言葉を用いることは、生きていくための必要条件の確保につながる。
そうした言葉を用いずとも、自分たちの誇りや権利が確保されるようであるならよいが、ひとつにはこの社会がそうなっていないということと、またそうした生き方の選択が可能でない場合もあるということ、そしてそもそもその人たちだけがそんなしんどい選択を強いられるいわれもないはずだ、といったことがある。
要するに、そういう戦略的な部分というのがある。


しかし、それだけでもない。
「多文化共生」というこの言葉を、自分の言葉として、自分の理念の実現の契機としてつかみとる自由というものも、もちろん個人にはある。
その場合、逆に「植民地主義」という言葉が、一種の「押し付けられた言葉」として機能するということもありうるだろう。


いずれにせよ、ぼくは「多文化共生」という言葉が嫌いだが、この言葉を用いる在日外国人などマイノリティを、その使用のみによって批判する権利は、ぼくにはないだろう。
批判するべきなのは、(おそらく)この言葉の支配者による用法だろう。


そして、上の紹介されている本も、もちろんそうした観点から論じられているものと思う。
いずれ読んでみたい本である。