見つからなかった本の話

つまり、共同体から排除された他者だけが「まったき他者」なのではなく、共同体を構成する複数の「ただの他人」も、「自分のすぐ近くの他人」も、すべての他者が私にとっては未知の、不可知の部分をもつ「まったき他者」なのである。この議論によって、デリダは、特定の他者を特権化するようなすべての思想、たとえば、「ユダヤ人」のみを特権的な他者とする傾向をもつレヴィナスの哲学などと袂を分かつ。(p278)


戦後責任論』を読んでたら、こんな文章にいきあたったので、興味ぶかく思い、デリダのこうした思想について語られているという同じ著者(高橋哲哉氏)の『デリダ』(講談社)を読んでみようと本屋で探してみたが、見当たらなかった。
最近、探してる本が本屋にないということが、ときどきある。インターネットで本を買うとか、図書館で借りて読むというようなことをしないので、行きつけの大きな書店にないと困ってしまう。


かつて、江戸時代の儒学などを参照して、「絶対的他者」ではなく、身近な「相対的他者」こそが重要、という議論が日本でもあった。
もちろんこの場合の「絶対的他者」とは、「共同体から排除された」人のことではなく、「特権化」された他者のことを指しているのである。「他者の特権化は、事実上の他者の抹消だ」というふうなことであろう。
しかし、そこは混同されかねない。


デリダは、「特権的な他者はいない」ということと、「共同体から排除されている人々が現実にいる」ということとを、どのように結びつけて考えた(語った)のだろう。
それは、伊藤仁斎のような儒者(共同体の倫理を追求した、とされる)や、そこから影響を受けた人も含む、日本の現代の論者たちと、どのように違っていて、どのように似通った考え方なのか?


だいたい、そういう点に関心があって上記の本を探したのだが見つからなかった、という話でした。


戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)