『戦後責任論』

日本の死者への「哀悼」とは何か。もちろん私は、たとえ「侵略者」だった死者でも、死者となった肉親、友人、知人等を「哀悼」し、「弔い」たいという残された者の欲求を理解する。そうした欲求は、こういってよければ、"人間一般の基本的欲求"であり、加藤氏が「国による死者の鎮魂」から区別しているように、「国家」には回収不能な欲求であろう。しかし、だからこそ、そうした「哀悼」や「弔い」は、「侵略者」たちが遂行した戦争、「侵略戦争」の被害者となった死者たちへの「哀悼」や「謝罪」と同じレベルのことではありえないし、したがって、これらの「先に置かれる」べきものでもない。もしも私たちが、あの戦争は「侵略戦争」だったという判断を自分の判断として引き受けるなら、当然「侵略者」たちの責任を問わなければならないが、そのことが、死者への「哀悼」や「弔い」によって曖昧にされてはならないのである。(『戦後責任論』文庫版p215〜216)


戦後責任論』は、その多くの部分を、『敗戦後論』ほかにおける加藤典洋氏の主張に対する批判にあてている。
ぼくは、著者(高橋氏)の考えに基本的にほとんど同意するものだが、ただ読んでいて「躓き」のような感覚をおぼえるのは、上記のような箇所である。
ここでは、著者は、死者となった肉親、友人、知人等に対する、いわば私的な追悼や弔いの行為を、「国による死者の鎮魂」から区別し、『「国家」には回収不能な欲求』として位置づける。
本書中の別の文章で、「アンティゴネー」が劇中で語った「国家の法」に対する「神々の法=家の法」ということが引かれているように、ここでは「私的」な(追悼の)領域の国家に対する独立性を守るという立場がとられているように見える。
だが、それに続く部分では、「侵略戦争」の被害者となった死者たち、つまり追悼する「私」となんら親密性をもたない死者たちとの関係こそが、死者との「私的な」関係よりもより重要、もしくは基本的である、と主張されているように読める。


上記の引用文の最後の一節は、ぼくならこう考えそうだ。
『「侵略者」たちの責任』を問わないことこそ、死者への「私的な」追悼や弔いを曇らせる、つまり私的領域の独立性を危うくさせるのだ。なぜなら、そこでは「政治的(非私的)なもの」が正しく厳密に批判され解除されていないからだ、と。
ところが、高橋氏は、そうは語らない。
死者への「私的な」追悼や弔いそのものが、『「侵略者」たちの責任』への問責を曖昧にする役割を果たしてはならないと、直裁に言い切るのだ。
言っていることはほぼ同じに見えても、この違いはおおきい。


つまり、高橋氏が問題にしているのは、「私的領域」、つまり親密な死者との関係性が成立する条件ということだろう。ひと言で言えば、「私的領域」(家族、共同体、家の法)と呼ばれるものが、ある排除のうえに成立しているということである。
「私的領域」そのものが、排除と無縁でなく、したがってそういうものとして政治的である。
だから、いかなる私的な追悼や弔いも、他者との関係についての問いという水準を経ることなく、神聖化(神秘化、特権化)されるべきではない。
なぜなら(さらに言えば)、あらゆる死者は、ほんとうは「私(たち)」と共同性を作ることが不可能な「他者」だからだ。「私的領域」という政治的な装置は、その死者の他者性を抹消してしまいかねない危険を持っているのだ。


こうして高橋氏は、他者との関係についての問いを経ない、いかなる領域(共同性)の保守も、最終的には認めない立場をとるのだろうと思う(そして、この立場は正しいと思う)。



戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)