『ユダヤとイスラエルのあいだ』

ぼくには難しいところもあったが、面白い本だった。
以下、まとまらないが(書評ではなく)思ったことを簡単にメモ。


ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

イスラエルという国がかかえる矛盾

本書によれば、イスラエルという国には、原理的な矛盾が存在するという。
それは、一方で「宗教、人種、性別にかかわりなくすべての住民に、完全な平等を確保する」(同国独立宣言より)と謳う民主的な国民国家を標榜していながら、一方で「ユダヤ人国家」と自らを規定しているため、ユダヤ人の移民のみを受け入れ、またユダヤ人以外の住民、とくに先住民である(イスラエル国籍の)パレスチナ人たちには不十分・不平等な市民権しか認めることが出来ない、という矛盾である。

ともあれ、この矛盾が意味するのは、イスラエル国内で「非ユダヤ人」であるアラブ・パレスチナ人に認められる権利は、実のところマイノリティとして存在を許される権利にすぎない、ということである。(p64)


この国家の成り立ちと、現在のパレスチナの占領をめぐる問題の成り行きとが、深く結びついていることは、想像にかたくないだろう。
本書のとくに初めのほうの部分では、「国民国家」と「シオニズム」という、いずれも近代ヨーロッパ出自の二つの概念を抱え込んだイスラエルの建国当時の矛盾が語られ、また本書の最後の部分では、その矛盾がさまざまな形で収拾不能なまでに露呈したイスラエルの国内と占領地域の現状が言及されている。


シオニズムユダヤ

ところで、イスラエルが、「ユダヤ人国家」として建国されることになった思想的な原動力は、もちろんシオニズムである。
著者は、シオニズムという思想・政治運動がヨーロッパの帝国主義と深く結びついたものであり、むしろユダヤ教の伝統やユダヤ文化の(イディッシュ的・ディアスポラ的な)性格とは対立しさえするものだという視点を強調する。
この点が、本書の大きな特徴だと思う。
本書でも引かれているドイッチャーの『非ユダヤユダヤ人』も、こうした観点に立つものだったと思うが、最近著者の早尾氏自身が共訳者となった『ディアスポラの力』(ボヤーリン兄弟)という本も出版されてるとのこと。
興味を持った(でも、難しそう。)。


「文化シオニズム」の二民族共存国家論

さて、現在イスラエルの国内には、「シオニズム右派」と「シオニズム左派」という二つの大きな政治勢力があるという。前者は、「リクード」に代表される。後者は、「労働党」に代表されるが、「リベラル左派」と呼ばれる、国内の市民団体(「ピース・ナウ」など)の多くもここに分類される。
前者は強硬派であり、後者は柔軟・巧妙な表現を用いるという違いはあるが、いずれもユダヤ人(とくにヨーロッパ出自の)が独占、もしくは支配的(マジョリティ)な位置を占める現行の「ユダヤ人国家」としてのイスラエルのあり方を肯定・支持する立場であり、これらを包括して「政治シオニズム」と呼ぶことが出来るそうである。


イスラエルが建国されるまで、もしくは建国の直後まで、シオニズムの内部には、この「政治シオニズム」の他に、「文化シオニズム」と呼ばれる立場の言論があった。
(当時の)ハンナ・アーレントマルティン・ブーバーなどを、その代表とする。
この人たちは、シオニストとして、ユダヤ人がこの土地と精神的・宗教的・文化的な結びつきをもち、したがってそこに居住して国家を作る権利があることは自明の前提としながらも、その国家のあり方として、先住のアラブ・パレスチナ人との完全な平等を原理とする「二民族共存国家論(バイナショナリズム)」というものを主張していた。
それは、ヨーロッパのユダヤ人迫害をもたらした国民国家の原理が、政治シオニズムが志向する「ユダヤ人だけの国家」というあり方によってイスラエルに継承され、排除や差別・迫害の構造が再生産されることを批判・拒絶するという理念的な意味をもっていた。
シオニズム」という限界を持ちながらも、そこにはひとつの先駆性があったのであり、エドワード・サイードも、その理論的な可能性に注目していたという。


本書ではとくに、アーレントについての分析が充実したものだと思うが、ここではブーバーの共同体論を批判的に考察した「マルティン・ブーバーの共同体論と国家」という章について、思ったことをメモしておきたい。

ブーバーの共同体論とキブーツの限界

それによると、ブーバーの共同体論は、ハシディズム研究と、社会主義思想(ランダウアー)の影響を受けたものだという。
「救いの日常性」を言い、日常的な他者を眼前にした「いま・ここの生活」の聖別こそが神と交わる道であるというブーバーのハシディズム解釈は、社会主義的な共同体思想へと、彼を近づけたという。

キルケゴールが、人は本質的に神とのみ交わるのだというのに反論して、ブーバーは「ハシディズムは、もし人が本質的に人間と交わらないならば、実質本質的に神と交わりえないのだ」と主張する。(中略)こうして、「いま・ここの生活」は他者との関係性の構築、つまり共同体を形成する志向をもつことになる。(p101)


このように考えるブーバーにとって、無政府主義者社会主義者たちの唱える「ユートピア」とは、空想的な理想郷ではなく、「いま・ここ」に具体的に実現されるべきものであると捉えられた。
そして、クロポトキンのように「国家」を革命によって打倒できるものではなく、国家的ではない有機的な関係(共同体)を現存の「国家」の内部で作り上げることによってこそ、人は「国家」の支配から真に解放されるとするランダウアーの思想の影響を受け、『国家的ではない有機的な人間結合による共同体』(p105)を、「いま・ここ」から作り上げることこそが、宗教的にも倫理的にも重要な行為であると考えたのである。


著書『ユートピアへの途』で、このように思想を展開したブーバーは、その最終章において有名なユダヤ人入植村の協同組合、つまり「キブーツ」を、その共同体の理想形として賞賛しているという。
ここで、著者の早尾は、大岩川和正の先駆的な著作であるという『現代イスラエルの社会経済構造』を援用しながら、実際にはキブーツは、ブーバーが構想したような「自己完結的な自給自足経済」を営んだこともなく、彼の理想とはまったく異なるものであったことを書いている。

私的所有の否定というのも、あくまでひとつのキブーツ内部の立場においてのみ言えることであり、キブーツをひとつの主体として外から見れば、あくまで資本主義的な商品生産によって富を蓄積していたのだ。(p110〜111)

では、自給自足でないとすれば、キブーツ入植村はどのような役割を担っていたのか。それは、新しい国民経済の創出である。国民規模の、つまりナショナルな経済の基盤としての土地所有をいかに確立するかを課題としていたのだ。おそらくこの点に関しては、個々少数の文化シオニスト(ブーバーもその一人)の意図と、主導的に政策を推進する政治シオニストの意図のあいだにはギャップがあった。
 しかし同時に、そこには相互補完的な依存関係もあったはずである。(後略)(p111)

要するに、「キブーツ」という社会主義的共同体(協同組合)の実験は、現実には国家と資本主義の体制を補完する、というより、その一機能として内属するものでしかなかった、ということである。
これは、なぜこういうことになったのだろうか?


ぼくが思ったことは、こうである。
イスラエルという国の特異性や、「政治シオニズム」の側の思惑に理由を求めることも可能だろう。
だがそもそも、ブーバーの共同体論自体に、「国家」を対象化する視点が稀薄だったということが、上の記述からはうかがえるように思う。
現実の国家を打倒しなくとも、「いま・ここ」の日常的な他者との関係を作り変えていくことで、「革命」(ユートピアの実現)は可能だと、ブーバーたちは考えた。
しかし端的に言えば、この時点で、「現実の国家」のあり方を批判する力、それと対決しながら自分たちの理想に向かおうとする力が、稀薄になる契機はある。
共同体のメンバーの意識がどうであろうと、現実には、国家と資本とは、共同体そのものの周囲を充たし、その基盤を形成しているからだ。
それらと自分たち(の共同体)との関係を直視することなく、「いま・ここ」の関係の構築だけを目指すことは、国家からの解放を目指す者の思想としてはあまりにナイーブであり、国家の思惑に沿うものだろう。


日常こそが重要だとしても、その日常を「神秘化」することは、われわれを国家による支配という現実から遠ざけることになる。
日常に介入している国家や資本の現実的で圧倒的な力、それなしではわれわれの現実の「関係」が決して成り立たないような力とどう向き合っていくかという視点が、きっと不可欠なのだ。
また、共同体の「日常」のなかで出会うような他者との関係のみを特権化するなら、そこから消去されるような他者というものも生じてくるだろう。
ブーバーの共同体論には、もともと国家(政治)の枠組みのなかに好んで組み込まれるような、特質があったのではないかと思う。