労働の二つの側面について

できることの方ができないことよりもよいという価値観として「能力主義」が問題にされることも多い。しかし、よいということが「役に立つ」ことを指し、そして「役に立つ」ことがそれ自体としてよいことなら、それはそれだけのことである。問題は、役に立つ/役に立たないことが、「人」のあり方についての評価基準になること、「人」の価値に結びつくことである。(立岩真也 『私的所有論』p332〜333)


少し前にコメント欄で、『低賃金の人は、人の役に立つ仕事(職業)をしていないのだ』という趣旨の書き込みをした人があった。
ぼくは、これは暴論だと思ったが、どう反論すればいいかと考えると、むずかしいところがある。
というのは、「いや、低賃金でも人の役に立ってる仕事はある」というふうに反論してしまうと、世の中には「人の役に立つ仕事」と「人の役に立たない仕事」の二種類があると、認めてしまうことになるからである。
なんの仕事であれ、「その仕事は人の役に立っていない」と言ってしまうことには、抵抗がある。


『低賃金の人は、人の役に立つ仕事(職業)をしていないのだ』というのは、「市場の論理から考えれば、そう判断される」ということであろう。
ある仕事(職業)に対する需給の具合に応じて、賃金が決まるということは、市場では、そういう仕組みになっているということである。「需要がある」ということを、「人の役に立つ」ことというふうに考えれば、もし市場がまともに機能してるのならば、賃金の低い仕事をしてる人は、要するに需要があまりないわけだから、「人の役に立つ」仕事に就いていないと言えなくもない。
もちろん、市場がまともに働いてなければ、この限りではない。医療・介護の現場など、「人手不足」が言われてるのに賃金の上がらない職場もある。それは、市場に問題があるのだろうと思う。


しかしそれでは、「人の役に立たない」仕事もやはりあると考えるべきだろうか?
ずいぶんな言い様だという気はする。だが、「「仕事」が人の役に立たなくて、何が悪いか?」とも言えそうである。
しかし、需要がないということは、賃労働としては成立しないということである。だから、それでは生活が成り立たない。
でもそれは、それだけのことであり、「需要がない」ということと「人の役に立たない」ということはイコールではないし、ましてその仕事に価値があるかどうかは、また別の問題であろう。自分の仕事の「価値」まで、市場原理とやらに決められてたまるか、と思ってる人は、職人さんならずとも多くいるであろう(だがそれでは、「価値の無い仕事」も、やはりあるということか?)。
ただ、それでは食っていけない。そのことが残るのである。


そして、自分は「価値」のある仕事をしているという気持ちがあり、それを賞賛したり頼りにしてくれる人もあるのに、そういう「消費者」にあたる人たちにあまりお金がないなどの理由で、その「仕事」が高い収入(高賃金)に結びつかないことはよくあり、それは理不尽な感じがすることでもあるし、そういうことが理由でその職種に就く人が少ないと、またそこで人手不足が生じてみんなが困ることにもなる。


それから、今書いてきたのは、「職業」についてのことだが、どんな職業にも、それに就くことに必要な個々人の「能力」というものがある。
たしかに、その仕事に就くのに何らかの高い能力を必要とする職種はあり、そうした能力をもつ人は少ないので、そうした職種が「必要とされている場合」、要するに需要がある場合、市場の中では、高い賃金を得るということが多いであろう。
そうすると、押しなべて「能力が低い」と考えられる人は、高い賃金がえられないことになる。これ自体は仕方のないことだろうが、問題は、それがその人の社会における価値、つまりは「人の役に立っていない」のだという評価、そこからその人の存在の価値そのものを低く見るようなことにつながりかねないことである。
つまりは、「市場」における考え方、賃金が需要に応じて決定されるというふうなシステムに影響されて、その人に「能力」が乏しいということと、その人の存在の価値に対する否定的な評価とが結びつけて考えられてしまう。


職業に関しても、その職業に就く人間に関しても、「人の役に立つ」かどうかを基準にしてしまう考えには、どうにも抵抗がある。
だがそれでは、「人の役に立つ」ことは必要ないのだろうか?そして、もし必要であるとするなら、「能力」が低いゆえに「人の役に立たない」と判定されるような人たちや職業というものについて、どう考えればよいのであろうか。




こう考えてみよう。
現在の社会では、職業(労働)には、二つの側面があるといえる。社会全体にとって役に立つことをするということと、働いているその人自身の生活を(収入によって)支える、ということである。


前者は、他の人ができないで困っていることを、代わりにやって助けてあげる、というようなことである。パン職人は、小麦を消費者が食べられるように加工してあげるのである。お医者さんは、病気で苦しんでいる人を治してあげるのである。科学者は、便利な薬品や機械などを作ってあげる。官僚は、専門知識などを駆使してみんなが住みやすいような社会が出来るようにやりくりしてあげる。また、お笑い芸人は、みんなを楽しませて幸せな気持ちにさせてあげる。プロ野球選手や小説家も、それによく似ている。そしてお百姓さんは、米や野菜をみんなのために作ってあげるのである。


これは、社会の中での「役割」ということである。個人間だけなく、国家間の関係にも同じことがあるだろう。現在の世界では、たくさんのものを生産する余裕のある国が、そうした余裕のない国に代わって食料などの品物を作ってあげ、それをそうした国々に供給してあげるのである。


個人の間にせよ、国の間にせよ、そうした相互に「役に立つ」関わり、それによってみんながより生きやすい社会(世界)を作っていくための関わりを、円滑にすすめるための手段として「交換」(貿易)というものがあると考えられる。すなわち、「市場」である。
単純にいえば、「何かを(して)欲しい」という必要、つまり需要を持っている側が「お金」を支払って、その品物やサービスを買う(交換する)。提供した(買ってもらった)側は、それによって財を得て、自分が生きていくことの手段とする。
そうしたシステムが、「市場」なんであろう。


それはともかく(話を戻すと)、「職業」によって、人はひとつには、社会のなかで他の人の「役に立つこと」を目的とするわけである。
そして「市場」とは、その目的が人間の欲望や性質と整合して円滑に果たされるように考案されたひとつの仕組みであると考えられる。
だから、ある職業が「人の役に立つ」か「役に立たない」かという基準で測られてしまうことには、この意味では必然性があるといえる。
また、人がある職業に就くことが出来るかどうかということは、その人の「能力」に深く関係することである。なんらかの意味で、高い能力がなければ就くことが出来ないような職業というものがある。その職業に対する需要が市場のなかで高ければ、(そうした仕事に就けるだけの能力を持つ人の数は限られているので)当然その人は高い収入を得ることになる。
だから、市場のなかでは、職業によって、またその人の「能力」の高さや性質によって、得ることの出来る賃金(収入)に差が生じることになる。これは、基本的には(市場の)理にかなったことだろう。


ただそれは、「人の役に立つか」「立たないか」という基準で測っていることにおいて成り立っている評価なのである。
それは、その職業を、またその人(が持っている「能力」)を、「役に立つ(立たない)」もの、つまりは「手段」として見ている、ということである。
高い能力をもち、「人の役に立つ」職業に就いている人は、その「能力」を、つまりその人の「手段」としての部分を評価されて、高い賃金を得ているのである。言うまでもなく、その人自身が評価されているわけではない。
そして、その「手段」が目的とするところは何かというと、言うまでもなく、社会のみんなのためになることをする(役に立つ)ということである。


ところで、職業にはもうひとつの側面、つまり「働いているその人自身の生活を(収入によって)支える」ということがあった。つまり、賃労働ということである。
この社会における「労働」というものは、「人の役に立つ」(他人を助けになる)ことをするということと、「自分や自分の家族が生きるためのお金を得る」ということとが、ある仕方で結び付けられているのだといえる。
どちらも、人(自分や他人)が生きていくうえで不可欠なことである。だから「労働」は大事だといえるが、それはあくまで他人や自分の生存を維持する手段(方法)として大事なのである。
だから、この方法が、「他人や自分の生存の維持」という目的にうまく適合しなくなっていると思われるのなら、もちろん修正や改革が検討されるべきなのである。


これ以上、具体的なことを何も提起できないが、現在の社会において職業(労働)には、こうした「手段としての二面性」が担わされているようだということを確認しただけで、今回は終わる。


追記:以上のようなことをメモした後になって、こうした事柄については、今年読んだ立岩真也氏の『私的所有論』(とくに第8章)のなかで、厳密に、かつ実際的に論じられていたことを思い出した。
こうしたことに関心のある方は、ぜひ読むことをお勧めしたい。


私的所有論

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