「血」について

以下は、メモ程度のものです。

記憶のエチカ―戦争・哲学・アウシュヴィッツ

記憶のエチカ―戦争・哲学・アウシュヴィッツ


先日も触れた高橋哲哉の95年出版の本、『記憶のエチカ』だが、その第5章では、やはり90年代前半の日本の政治・思想状況を受けて、戦前の「京都学派」の代表的な学者のひとり、高山岩男の『世界史の哲学』に対する批判が行われている。
それは、「大東亜共栄圏」を支える思想につながっていった高山の民族的・文化的多元主義が、当時の日本の政治・行政の枠組みのなかで再評価され台頭してきたことへの批判という意味をもっていた。
そのなかで高橋は、高山の「文化」についての思想を、次のように批判している。

「精神」とはまさに、文化の根底で「移植」に最後まで抵抗するものの名称である。よりくわしくいえば、「移植」の限界=境界(limite)を支配・統御し、それが十分に強力であるときには、一方では、他からの「自主的」で徹底した「移植」をみずから遂行し、他方では、自己をけっして「移植」に委ねない――他からの「移植」によって自己を失わないと同時に、自己自身のもっとも「固有」なものの「移植」を許さない――もの、そういうものの名称なのだ。(p195)


この「移植」という後を「移民」と置き換えても、そのまま通りそうである。
また、こうも言われる。

日本の「世界性」は結局、過去についても未来についても、「外国文化」の「移植」を通して考えられているだけで、「血」の「同一性」そのものはつねに不変の聖域であることが前提されている。(p235)


ところで、「血」に直接結びつく「移民」ということについて言うと、この本では、むしろ同じ京都学派の西谷啓治による座談会での発言が脚注の中で紹介されていて、関心をひかれる。
西谷は、大東亜共栄圏の建設にあたって、「日本の人口が少な過ぎる」ことを問題にして、圏内の諸民族のなかで「優秀な素質」を持ったものを、「半日本人化する」ということを主張していたという。その論旨を、高橋は次のように要約している。

ここで西谷は、第一に、本来の日本民族(「大和民族」)の「血の純潔」を守ること、第二に、「精神的」日本民族の人口を増やすこと、第三に、「精神的」日本民族の「優秀性」を維持すること、という三つの要請を考慮しているように思われる。他者の他者性を廃棄して自己を拡大しつつ、しかも自己の本来的同一性を維持しようとする欲望が、ここにはまったく端的に露呈している。(p277)


『記憶のエチカ』の出版から10数年が経った、2008年の現在の観点で見ると、上記の「第二」と「第三」の要請は、現在の日本の移民政策(選別的な)にも継承されているように思える。
だが、「第一」については、かなり弱まってきているのではないか?
ひとつには少子化にともない、「血の純潔」はある程度放棄していかなければ、「民族」自体の存立があぶないという認識は、保守的な人たちのなかにも強いのではないか。
これはイデオロギーの問題ではなく、それを変える(放棄)しなければ自分たちの実体(権益)が損なわれるのだから、権益を守りたい人たちは必ず放棄してくる、と思うのである。


むしろ、「血の同一性」というテーマは後方に退き、血統に関わらない「階層化」の方がリアリティを持ちつつあるのではないか。
これは、社会がリベラルになるとか、平等になるということではない。
むしろ「血の同一性」の論理を越える様な仕方で、支配と管理、そして差別が、継続・強化されるということである。
どれほど混血化が進んでも、支配の構造には、なにか変わらないものがある。
差別や支配に抵抗する側は、「血」への批判に代わる、あらたなロジックを形成する必要があると思う。
生殖の問題が、技術の発達によって、まったく新しい段階に入りつつあることも、当然関係するだろう。