『三ギニー』

 

 

ヴァージニア・ウルフの『三ギニー』は、第二次大戦前夜である1938年の状況下に、反戦をテーマとしてフェミニズム的な立場で書かれた傑作だ。これを評論と呼ぶべきか、フィクションと呼ぶべきかは分からないが。

ウルフは、この10年前に、やはりフェミニズムの先駆的な作品として名高い『自分ひとりの部屋』を書いているが、それと比較すると、個人主義的・資本主義内部的な解の提示から、社会変革的・反資本主義的といってよい視点への移行、いや深化がうかがえると言ってよいであろう。この変化は、たとえば次の一節によくうかがえる。

 

 

『もしも国家があなたがたの妻に対し、その労働に見合った生活費を支給するなら(中略)、もしも彼女の自由にもましてあなたがたの自由に欠かせないこの手段が講じられたなら、職業男性が現在しばしば飽き飽きしながら、自分でも喜びがほとんど感じられず、その職業にとっても利益がほとんどないのに続けねばならない苦行は、なくなるでしょう。あなたがたには自由のチャンスがもたらされ、すべての奴隷労働の中でもっとも卑しいもの、すなわち知性の奴隷労働が終焉を迎えるでしょう。(p204)』

 

 

ここには、熱心な労働党員としてのウルフの政治的な考えが示されているのだろうが、家事労働への公金の支給という政策の意義を、男性社会にも拡げて論じ、昨今話題の「ブルシット・ジョブ」に既に言及しているのには驚かされる。

実際、戦争と、(反戦運動を含む)平時の男性主義的・競争主義的な社会体制との同根性を掘り下げる、ここでのウルフの筆致は、反語的な表現においてだが、「職業」とか「(大学)教育」といったものの世間では自明と見なされている価値に、激しい批判を浴びせていて、その印象はアナーキストの文章のようですらある。

 

 

『先ほど伝記から取り出した事実によれば、職業は人にある種の否定しがたい効果をもたらすものと示しているようです。職業を実践すると人は独占欲に囚われ、自分の権利が少しでも脅かされると嫉妬に燃え、その権利に疑義が呈されれば激しく牙を剥きます。だとすれば、わたしたち女性も同じ職業に就くなら同じ性質を身につけるだろう―そう考えるのが正しいのではないでしょうか?そしてその性質が戦争を導くのではないでしょうか?(p123~124)』

 

 

『教育、それも世界最良の教育ですら、腕力を憎むことではなく使うことを教えるのです。教育とは、学ぶ者に気高くあれ、寛大であれと教えるどころか、所有物を独占したい、あの詩人の言う「気品」と「力」を自分たちだけで独占していたいと願わせ、持っているものを分けてほしいと頼まれようものなら、腕力よりもっと狡猾な方法で妨害するのではないでしょうか?そしてこの腕力とか所有欲というものこそ、戦争と密接な関係があるのではないでしょうか?人びとに影響を与えたい、戦争に抵抗できるようになってもらいたいというときに、大学教育が何の役に立つのでしょうか?(p58~59)』

 

 

特に、「職業」なるものが持つ(性)差別性・排他性の起源を「聖職」の成立に求めたくだりなども、きわめて先駆的な洞察といえるのではないかと思う。

ところで、先にウルフの社会的な認識の「深化」と書いたが、それは認識の度合いが深まったということだけでなく、それに伴って絶望の深さも増した、という意味でもある。この書物が、もっとも印象深いのは、その点だ。

それは、次の一節によくあらわれているだろう。

 

 

『楽観的で信じやすい性質の人なら、やがて新しい社会が素晴らしい調和の鐘の音を鳴らすだろうとか、貴兄の手紙がその前触れなのだろうとか考えるかもしれませんが、そんな日はまだ先でしょう。わたしたちはどうしてもこう自問してしまいます―人びとが集団となり<社会>となるとき、そこには個々人の中のきわめて利己的かつ暴力的なもの、もっとも理性と人間性を欠いたものを放出させる何かがあるのではないだろうか?<社会>なるものはあなたがたにはとても親切でも、わたしたちにはとても冷酷なので、わたしたちには向かないもの、真実を歪めて精神を変形させ、意志に足枷を嵌めるものと思えてしまいます。<社会>なるものは個人としての<兄弟>―尊敬に値するとわたしたちの多くに思える人たち―を埋没させ、その代りに怪物じみた<男性>を現出させる陰謀のように感じられます。この<男性>は、声を張り上げ拳を振りまわし、子どものように地表にチョークで線を引くのに夢中です。その不可解な境界線に従い、人びとは厳重に区切られ、人為的に囲い込まれます。(後略) (p192~193)』

 

 

ウルフは、この本の出た3年後の1941年に、59歳にして自ら命を絶っている。それは、ドイツによる英国本土への空爆やロケット攻撃が始まっていた時期だが、その絶望の理由は、戦争の進行ばかりでなく、彼女の心の奥底にもあったのだろう。