朝鮮をめぐる事柄への基本認識

国際政治の風向きが表向きは変わり、朝鮮と周辺の国々との関係が進展(改善)しつつあるように見える。そして、昨日も書いたように、この傾向自体は良いことであり、歓迎したい。


たしかに、朝鮮という国に関して、問題はあまりにも多い。いま、国際政治の場で中心的な課題となっている核開発のこともそうだが(これについては、もちろんこの国だけが問題ではない)、他にも数え切れぬほどたくさんのことがある。


最大のことは、伝えられる飢餓や貧困の状況を含めた、国内の人権、人命をめぐる問題だろう。「伝えられる」ことのすべてを鵜呑みにすることはもちろん出来ないとはいえ、深刻な事態がそこにあるであろうことは、間違いないだろう。
また、日朝関係について言えば、到底「過去のこと」になったというわけにはいかない、日本の植民地支配に対する謝罪や賠償の問題がある。いわゆる「過去の清算」である。
これは、かつての日韓基本条約のときにそうだったように、国交正常化交渉の過程で日朝両国政府による「政治的・経済的な決着」が図られてしまう怖れも強い。
そして、もちろん韓国や日本から拉致されたとされる多くの人たちの問題がある。この問題の究明はまったく進んでいない。「救える」人たちが今、どのぐらい居るのかも分からない。植民地支配とその賠償に関わる問題と同じように、政治の大きな動きのなかで置き去りにされる可能性のある人々の数は、ここでもあまりに多いのである。
さらにまた、先の「人権」問題とも関係するが、この政権の体質が、朝鮮の多くの人たちにとって本当に良いのか、という問いを忘れることはできない。


だが以上のようなことを全て確認したうえで、やはり現在の朝鮮をめぐる国際政治の流れは、望ましい方向に向かっていると考える。
その大きな理由のひとつは、以前にも書いたように朝鮮戦争終結を含む、この国と周辺の国々との関係改善、平和的な形での国際社会への組み込みだけが、この国の体質を変化させ、さまざまな問題を解決していく最善の道、「平和的・民主的」という意味では、ほとんど唯一の道と思われる、ということである。
つまりそれは、この国に関する事態がより良い方向に向かっていくための「必要条件」であり、他に代替策がないような「必要条件」だろうということである。
では、その上での「十分条件」とは何か?
それは、国家と国家との、国際政治における取り引きや妥協や合作のなかで消し去られかねない個々の声を、特定な政治的思惑とは離れた場で聞き取り、広げていくということではないかと思う。
昨日紹介した、朝鮮や日朝関係をめぐる二つの動きも、そうした「個別の声」のひとつであると思う。



強制連行を含む植民地時代の謝罪と賠償の問題にしても、拉致の問題にしても、それらは「朝鮮半島を含む東アジア地域全体の平和と安定」という方向性のなかで解決が図られるべきこと(また、そうであるしかないこと)であるが、その方向性の実現がほんとうに可能になるのは、これら諸問題の当事者である個々の人たちの声が「国家の政治」に飲み込まれることなく、あくまで個別の声として聞き届けられ、決して「全体」や「集団」の論理によってかき消されないことによってのみである。
そのとき、「朝鮮半島を含む東アジア地域全体の平和と安定」というビジョンは、この当事者の人たち一人一人の、またわれわれ一人一人の生命と生存に結びつくものとして、その現実的な意味を獲得するはずである。