共感する力は「能力」か?

昨日のエントリーのブックマークにkmizusawaさんが、能力というより向き不向きのようなものがたしかにある、といったことを書いてくれてたけど、たしかにあそこに書いた他人の困窮への「感受力」みたいなものまで「能力」と名づけてしまうのは、ぼく自身の能力主義傾向の表れかもしれない。
そこを「向き不向き」と考えられれば、ずっとスムースに動けるのかも、と思う。
ぼくはどうしても、個体というか、比較可能な「自分」にこだわってしまう面が強いのだ。


エントリーのなかにも書いたように、実際の支援(救済)の現場では、実際的なあれこれの能力が必要で、それは「能力主義」ということではなくて、機能的な意味でそれぞれの能力を評価し、(たとえば賃労働の場においては)労働力の価格算定の基準とすることは是認されるだろう。
「できる人」に、できることをやってもらい、それに応じた報酬を支払い、「救済」のためにさらに努力してもらう。「できない人」(普通の意味で、能力がない人)は、それについて引け目に感じることは何もない。すでに書いたように、「できる人」が、自分のできる限りで他人を救うことは当たり前だから。「できる人」も、自分のできる限り(できる範囲)をやっているという意味では、他の行動している人たち(できない人)とまったく同等である。
ただ、この人たちの労働力を確保するために、市場のなかでは能力に見合った賃金を保証する。
こういう実際的な方法としての、個々の「能力」の評価と、機能的な配分・使用ということは、労働や経営においても、運動・活動においても、同様に許容されると思うし、許容されるべきだろう。


それに比べて、「感受力」とかコミュニケーションのための基礎的な力まで、人によって差のある、また人の存在の外部にある能力ととらえ、相対化して値段をつけるということには、抵抗がもたれるかもしれない。
それは、ひとつには、それらの要素が、「人間として」基礎的なものであると考えられているからではないか。
また、もうひとつには、それらは個々人に帰属する「能力」というよりも、人が生きる上での普遍的な、また人間の存在の複数性に関わるものと考えられるから。「感受力」は、それを保持する「私」に帰属するようなもの(「能力」)と考えるべきでない、という感じは、ぼくにもある。
たしかに、これらを「能力」という範疇に入れることには、ためらいがある。


ただ、今あげた二つの理由のうち、前者についていうと、他人に対する「感受力」のようなものでも、それが欠けていれば人間として決定的なものが欠けているということではない、と考える。
社会でなく個々人のレベルでいえば、それは、ひとつの「特徴」とか「性格」と考えていいものだと思う。
だから、そういう人が増えてきたときに、それを組み込んで「社会」的な仕組みをどう作っていくか。
それは、もっと前向きに考えていいことだと思う。


いま、あまり落ち着いてものが考えられないので、とりあえず思うことをメモ的に書いておきました。