技術とジェンダー?

ストリートビューについて色々考えてるうちに、男と女で受けとり方に大分違いがあるのかなあ、という気がしてきた。
というか、自分の感覚は(いい意味か悪い意味か、色々だが)どうもジェンダー的みたいな気がする。「ジェンダー」という語がよく分からないのだが、ここでは、「その時代の社会において定められた、この性はこうあるべき、という規範に支配されてる」というような意味で使っておく。


たとえば、ストリートビューについて否定的な人(ぼくの周りでは女性が多い)は、「何の役に立つのか分からない」といったことを言う。
それに対して、ぼくなどは、こう思う。


誰かの何かの役に立つことはあるかもしれないが、それははっきり分からない。役に立ったとしても、代替可能なもので、たいしたものではないかもしれない。
そうであっても良い。
むしろ、そのぐらいの技術の方が好ましいとも思える。
どういう技術が存在を容認されるかということについて、「有用性」を基準にするべきではない。その基準は、あくまで「有害性」であるべきだろう。
たとえば原子爆弾は、開発者、使用者にとっては、間違いなく巨大な「有用性」のある技術だった。一方、たとえばベーゴマ(を上手に操る技術)には、ほとんど有用性がない。
だが、存在が容認されるべきでないのは、原子爆弾の方だ。それは、こちらの方が「有害」だからである。
この技術が、別の大きな利益(原子力発電など)をもたらしうる、つまり必要性のあるものだとしても、それが意味するのは、「そこにはニーズがある」ということだけである。有害性があまりに大きいなら、他の技術(風力発電とか)でニーズを充たすことを考えるべきだ、というだけだ。
だから問題は、「有害性」であって、「有用性」である技術の存否を規範的に判断するべきではない(自然に消えるのは、ある程度仕方がない)。


だが、以上のように論じて、ストリートビューのような技術の存在(及び使用)を擁護しようとするのは、つまり「役に立たなきゃ、存在しちゃいけないのか?」と反問したくなるというのは、どうも自分が、男としてのジェンダー的な価値観を抱いてるからではないかと思う。
これは、一概に悪いことではない。
たしかに、技術は、そのような「遊び」において捉えられた方が良い面がある気がする。
だが、「必要」(有用性)より「遊び」を主張できる立場は、かなり特権的ではある。
このような立場に立ちえない場所から、こうした技術への抵抗や疑問が投げられているのかもしれないということは、よく考える必要がある。


ストリートビューに関して言うと、意見の相違の核心は、見ることの暴力性、及び見られることの被暴力性に対する感覚の差であろう。
ぼくはどうしても、その点の意識が薄いように感じる。
その薄さの上に立って、そのことを正当化したいという気持ちを、疚しさと共に隠しながら、物を言っているということはある。
これはやはり、欲望にまつわる性差、ジェンダー差みたいなことではないかと思う。
この技術を肯定するにしても、その点は、よくおさえておくべきであろう。