ワークショップ・仕事と労働

きのうのエントリーのはじめの部分で、ぼくがずっと参加しているワークショップの現場に行くことが、共同生活が苦手なぼくにとってはほんとうはあまり楽しくないのだというふうなことを書いたが、これは正直な気持ちである。
極端な言い方になるが、主観的には「楽」が1に対して、「苦」が9ぐらいだといつも思う。それでも、こういうのは算術の対象になることではないので、だいたいは行くことになるのだろうが、毎回行く前はほんとうに気が重い。
では、なぜそんなところにわざわざ行くのかというと、今回の場合はとくにそうだが、その場所に行くことが自分にとっては「仕事」だという感覚があるのだ。
「仕事」だという意味のひとつは、「労働」ではないということである。


「仕事」と「労働」が自分のなかでどう違うか。
「労働」は価値の生産や有用性ということに関わっている。そこでは自分には他人と違う、他人よりすぐれた何ができるかということ、自分はなんらかの意味で「役に立つ」存在かどうかということが問われる。この意味でいうと、ワークショップにおいて、自分にはその場所に行く意味はない。というか、そういうことが問われるだけの場所であるなら、自分には行く理由がない。日常生きている「国家」や「市場」の空間と変わらないからだ。
一方、「仕事」という場合、そこでは自分の存在が「役に立つ」かどうかで計られるのではないことを意味する。そこで自分の存在が肯定されると感じるから、また他人にとって必要とされていると感じるから、そこに行く必要があると思うわけだが、その肯定や必要ということの水準が、「有用性」とは無縁なのである。
そういう場において、自分が必要とされている、行くべきであると強く感じるということ、それが「仕事」だということの意味であって、そこで問題になっている自分の存在の価値は、市場的な交換における価値とは、別種のものだ。


ぼくは、きのうのエントリーで「中間集団」という言葉を用いたが、その意味はこうした国家や市場とは別の原理において人を肯定する空間、共同性というような意味である。
現在の社会では、国家の原理と市場の原理とが一体化し、それが人の存在の価値を計る唯一の基準みたいに見なされつつあるので、こうした空間の存在は、それをずらす意味でたいへん重要なものになってきているというのが、ぼくの考えだ。


ところで、ここで問題になるのは、そうした空間(共同体)において人間の価値が肯定されるといっても、それは所詮「別の交換価値」にすぎないものではないか、ということだろう。つまり、そうした集団のメンバー同士の相互肯定が、結局はその共同体を維持するためになされるにすぎなくなるということ、共同体が「ミニ国家」のようになってしまうという弊害は、つねに発生しうる。


柄谷行人は、『世界共和国へ』(岩波新書)のなかで、国家による「再分配」、市場における「商品交換」以外に、共同体の「互酬的交換」という交換のあり方に注目し、これら三種の交換原理の複合体として資本主義的な社会構成体をとらえた。
彼は、それを越え出る可能性として「アソシエーション」という運動の可能性を語っているわけだが、ぼくはそれよりも、共同体を形成する原理を「互酬的交換」として見出し、それがあらゆる既存の社会的構成体の根底に相補的に存在しているとする、洞察のほうに驚く。
彼は、共同体や、共同体的な原理を、それだけでは「国家」や「市場」(資本)の外部にあって対抗するものではありえない、と見なしたわけだ。


だが、ぼくが先に書いた「仕事」ということ、「有用性」以外のところで人の存在の価値を肯定することの可能性は、こうした意味での共同性、一見資本主義や国家の交換の原理と対立するかにみえて、じつは相補的であるような、別種の交換価値が流通する空間とは、やや違っていると思う。
ぼくが感じている、この空間の可能性は、人間の存在の間接性、あるいは複数性ということに関わっている。その場所に、他人が存在しているがゆえに、自分の存在がはじめて肯定され価値をもつ、ということ。自分の存在の価値に、あらかじめ他人との関係性が繰り込まれているということ。
自分の存在はほとんど無価値だが、そこに他人が存在するということによって、自分を越えたところに価値が生じ、生きて行動する意味が生じてくる。ぼくが「仕事」と呼ぶ感覚は、そういうことに関わっている。