ETV特集 裁かれなかった毒ガス作戦

日曜の夜に放送されたものだが、思った以上にすごい番組だった。


日中戦争時の日本軍による毒ガスの使用や人体実験の実情を、体験者(元日本兵など)の証言を交えて描き、あわせて第二次大戦中のアメリカ側の対日毒ガス使用の計画を紹介、最終的に東京裁判でなぜ日本軍の毒ガス使用が不問に付されたのかを追及し、そのことが戦後の世界に与えた影響までを考察。


なかでも一番強い印象を受けたのは、湖北省の宜昌というところでの戦闘でイペリットガスの使用を経験した元日本兵の老人が、実名を伏せ、後姿を見せて、当時のことを証言する部分。並行して、現地の住民が当時の記憶を語る映像が流される。
これを見ていて思ったのは、よく「中国(被害者側)の記憶の薄まらない強さ」に対して、「日本(加害者側)の記憶の稀薄さや不在」といったことが語られるが、じつは体験した日本人個人の心、そして社会の側にも、別の形で、消すことの出来ない深い傷跡のようなものがうがたれたのではないか、ということだ。
その傷跡とは、(他者への)倫理的な意識を持つことの、半ば公的な禁止ということである。それが、深い穴のように、体の内側に作られた牢獄のように、戦争を体験した人や、その子孫たち(つまりぼくらだ)の生の内部に刻まれた。
あの証言する人の映像を見ていて、そんなことを感じた。


だが、とても大事なことは、この「禁止」の命令が、たんにアメリカという外部によってもたらされたものでなく、むしろ、日本の社会に内在する権力のあり方が、戦争の終結に当たって、アメリカへの服従・依存に生き残りの道を見出すなかで、この命令を発することになったのだということであろう。
戦後の対米追従は、近代日本の根本的な在り様に根ざすもので、その構造のなかに、われわれ自身の空虚や無力さの、大きな原因があるということだ。


この番組で、もうひとつ印象的だったのは、日本がアメリカを相手には毒ガスを使用しなかったということ、またアメリカも結局日本に毒ガスを使用することがなかった理由である。
日本は、毒ガス戦になった場合のアメリカの技術的優位を知っていて、報復によって大きな被害がもたらされることを怖れて、対米戦用の毒ガスの開発・使用を取り止めた。
つまり、中国にはその怖れがないから使用した、ということだろう。
一方アメリカも、当時ドイツが降伏していなかったことから、日本を相手に毒ガスを使用すれば、ドイツによる毒ガス使用の口実を与えることになり、多大な損害を被ることを怖れて使用に踏み切れなかったのだという。
ここには、ある意味の合理性がある。それは、「自国(自軍)の大きな損害が予測されないなら、どんな残虐な兵器を用いてもよい」、むしろ「正当化される」という合理性である。
実際、この合理性にもとづいて、アメリカは原子爆弾を使用したのだろう。
そして、この番組の検証の結論を言うなら、自らの毒ガスの(将来の)使用の余地を残すために、アメリカは東京裁判で日本軍の毒ガス使用を免責させたのであり、この裁判の場で毒ガス使用という国際法上、人道上の罪が裁かれなかったことが、ベトナム戦争をはじめとした戦後の化学兵器の使用への道を開いた、ということになる。
ここにも、「合理性の悪しき使用」と呼べるようなもの、いやむしろ「合理性が人間を使用(支配)する」という事態の、本格的な始まりが見られるように感じるのだ。