『証言記録 兵士たちの戦争』

きのうまでNHKの地上波で放映されたこの番組については、以下でも言及されているが、
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080730/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080731/p1
一点だけ、思ったことを書いておく。



このような証言映像を見るとき、そこで語られている証言の内容はもちろん重要だが、言葉では明示されないものを含めた映像と音声の全体から、われわれ視聴者は、多くのものを感じとる。
それは、証言者の沈黙や、表情、身振り、言葉の調子、言い回し、そういったものから伝わってくる何か(そこに現前してはいないもの)の「気配」のようなもの、それを直接に感受するということである。
この番組では、戦場での体験から60年以上を経ても、記憶が毎夜現在の出来事のように回帰してくるという証言、「あれは人間の見る光景ではなかった」という言葉や、「戦争のことは、本当のことは話せない。本当のことを言ったら、夜眠れなくなるから」といった言葉の断片から、また淡々と話している途中に、突然表情を変え、あるいは言葉を詰まらせて両手を差し上げる、そうした動作の向こうに、そういう何か具体的なものの「気配」を感じて、われわれは釘付けになる。


それは、誰もが感じていることであろう。
だが問題は、現前していないが具体的に感じられるその何かの「気配」というもの、つまりはこれらの元兵士の人たちの内部に今も生起している戦場の体験を、現実のなかに置いて見据えるための言葉が、われわれには欠如しているかに思えることである。
このシリーズ中でも語られている、女性や子どもを含む多くの現地の人たちを虐殺したというような、他者に対する加害の記憶については、あえてここでは置く。
むしろ、たとえば米軍の砲火にさらされた南方の島での体験、洞窟のなかで「半分死んでいた」という心境のなかで過ごした数年にわたる絶望的な戦いの日々、それらの戦場体験を、どのようにとらえ、受けとり受け継ぐか、ということをここでは考えたい(こういう番組を見て、何か戦争を肯定するような考えに行ってしまう人のことも、ここではとりあえず話の外に置くことにする。)。
さて、これらの体験談の感想を、一口で言うなら、「戦争の悲惨」ということに尽きるだろう。だから、ここからは普遍的な絶対平和主義のような考えしか、帰結しないように思える。
だがそうなると、何かが消されてしまう。何かとは、体験の具体性・歴史性に関わるものであり、それが失われることによって、これらの言わば「他者なき戦場体験」は、容易にナショナリズムによって回収可能なものに変ってしまうと思う。ここに、無視できないジレンマがある。
だが、元兵士たちの、あのトラウマ化したような体験の記憶に、歴史性の刻印が押されていないはずはないのだ。


ここで消され、隠されているものは、日本という国家や軍隊組織による、自国の兵士たちへの非人道的な処遇、処置、いわば自国の兵への「人道に対する罪」とも呼べるものである。
たまたま今読んでいる山下英愛著『ナショナリズムの狭間から 「慰安婦」問題へのもう一つの視座』(明石書店)という本のなかには、戦前の日本の軍隊が他国の軍隊に比して、指揮命令への絶対服従を強制したり、暴力による秩序の維持が慣習的に行われ、また休暇をほとんど与えないなど、特異な性質を持っていたという最近の国内外での研究が紹介されている。
この番組のなかで紹介された日本軍のずさん極まりない作戦計画、銃弾さえ用いない歩兵による体当たり的な戦法の多用、玉砕さえ認めず生き地獄の徹底抗戦の無意味な強制などからは、日本国家と軍という巨大な官僚機構が強いた、兵士の人間性、むしろ端的に生存に対する異様な軽視・無視の実態が明らかになる。
これは、戦争や軍隊という一般悪、暴力機構の一般性の問題とは別に、「この国の軍隊」という固有性、また歴史性を帯びた非人道性なのだ。


だからここで批判・告発されるべきなのは、「戦争一般」であると同時に、この兵士たち(また死んでいった無数の兵たち)を追い込んだ、自国の軍であり国家の(人道的な)「犯罪」であり、体質である。
この証言者たちや、死んだ無数の兵士、元兵士たちは、その具体的・固有的・歴史的なものの被害者で(も)ある。
その視点を欠如させるなら、これらの証言で語られる体験が伝えるメッセージは、(言語的には)抽象的な「戦争の悲惨」というところに還元されてしまう。
平和主義を普遍的に言うことは本来なら間違っていないが、ここで問題なのは、戦後の日本の政治的文脈においては、そのこと(絶対平和主義)が個々の人(広く国民一般)の「国家との敵対性」の隠蔽という機能を持つことになった、ということである。


日本の国家や軍という官僚機構が、自国の兵士に対して(も)何をしたかという視点が必要なのだ。
それが、あれらの証言者、体験者たちの、そして戦中・戦後に亡くなっていった無数の体験者たちの言葉と沈黙を、戦争により被害を受けたさらに数多くの他者である死者に向けて、また国内の死者たちに向けても、開いていく方途だろう。
それらの死の間には、(加藤典洋が言うような)因果関係はないが、いやある意味ではあるだろうがそれ以上に、ある種の同根性があるはずだからである。
必要なのは、「追悼」(加藤)ではなく、国家の(われわれによる)「告発」であり、国家との(われわれの)「敵対」なのだ。
そして、現場における個々の人間の命の重みをあくまで無視するという、この固有的な「非人道性」の体質が、現在の日本社会の問題と深くつながっていることは、言うまでもあるまい。