再び生田さんへの応答と謝辞

生田武志さんが、早くもこちらのエントリーに応答を書いてくださっています。
ありがとうございます。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays11.htm


ぼくの文章、とくに2度目のエントリーでは、論の進行上、生田さんと上山さんのやりとりを引き合いに出すような形になり、上山さんに対しても申し訳ないような思いがあります。
自分がはじめに読んだときに、あの箇所が一番気になったので、それを色々考えていくうちに、ああいう書き方をすることになってしまいました。
一番肝心なことは、ぼく自身が生田さんの言われる「共同闘争」の呼びかけに対して、どのようなスタンスなり行動なりをとるか、ということだと思います。
それは、今回に関しては、自分なりの意見や違和感を表明するということが、そのひとつの答え方だったわけです。その呼びかけに全面的に賛同するかどうかは留保したいということも含めて、自分なりにその呼びかけに、ブログの言葉の上だけでも答えようとしたわけです。
もちろん、たいへん不十分なものだったと思っていますので、今後なんらかの形で継続してやらなければいけないことがあるだろうと思っていますが、とりあえず、これが今出来る答え方だった、ということです。
言うまでもないことですが、基本的に生田さんの実践に対しては尊敬と多大な共感の気持ち以外ありません。この論文における理論的な仕事についても、それは同様です。
そのうえで、自分がなにをできるか、という気持ちで発言したわけです。


それで、生田さんの言われる「相対的な解決」ということ。それは、その通りだろうと思います。
ぼくが言おうとしたのは、ある場合には「相対的な解決」を目指す試みが、逆に事態の悪化を招いてしまうのではないかという、これもやや図式的な批判だったわけですが、そういう危惧があったとしても「相対的な解決」を目指す試みを行わない方がいいということには、決してならない。
なぜかというと、そういう解決のための試みを行おうと行うまいと、「事態の悪化」の方は積み重なっていくと考えられるからです。結果だけを見て、「これなら改善を目指して行動しない方がよかった」とは、決していえない。むしろ、「事態の悪化」にも関わらず、「相対的な解決」への試みが続けられたという事実こそが評価され、賞賛されるべきだ。そういうふうに思います。
ただそれでも、「相対的な解決」をよりよいものにしていこうとするベクトルを常に持ち続けることは、もちろん重要で、ぼくもそういうことを書こうとしたわけです。
しかしそれは、実際行動に関わっている生田さんこそが、具体的にその大事さや困難さを知っておられるはずだと思います。


「運動体の権力構造」の話についても、それこそ「釈迦に説法」そのものの話を書いてしまいました。

この「共同闘争」という言葉(理念)は、運動体そのものへの批判を含むものとして使うことができると思います。「共同」というものの意味が問われなければならない、という意味で。


これは、とても大事な言葉であると思います。ぼく自身も肝に銘じたい言葉です。
簡単に言ってしまえば、「差異を肯定して、連帯する」ということなのでしょうが、「差異」というもののなかには、お互いの間の争いや葛藤も当然含まれるわけだから、それを実践することはたいへん困難で、常に矛盾をいくらかは含まざるをえないものだとも思います。
そして、この矛盾をどう考えるかが、運動に参加する人と、それに抵抗感を持つ人との「隔たり」にも関係してくると思うのですが。
このことはとくに、今後も自分の問題としても考えていこうと思います。


また、生田さんが書いておられる、オウム真理教と、とくに「家族」(そして家族的な共同体)の問題、それから日米関係と沖縄の問題。どちらも、たいへん重要な事柄であると思います。
付言すると、生田さんの論文のなかでも、とくに275ページ前後では、諸外国との関係のなかでの日本の不安定就労(や野宿者の)問題の位置という視点が、顔を見せていたと思うのですが。
そうしたことも含めて、自分に何ができるかということを、ぼくなりに考えていきたいと思っています。


(こちらから話をふっかけておいて言いにくいのですが)今回は、貴重な対話をさせていただき、ありがとうございました。