『財政のしくみがわかる本』


そもそも財政とは何のためにどういうものか、それはなんのために必要なのか、経済の基礎的なことの解説からはじめて、現在の日本の「財政」が抱える問題と、解決への処方を提示する。
とくに基礎的なことを論じたはじめの方の部分は、分かり易いというよりも明快で非常に面白い。「攻めの解説書」である。

4章で改めて話をしますが、財政は金もうけをしてはいけない領域で、だからこそサービスをただで配っているのです。ただで配っているということは、何を意味しているのでしょうか。必要に応じて配っているということなのです。
(中略)
 市場は購買力に応じて配るので、お金持ちはたくさん消費し、貧乏な人はお金をもっていないから消費できません。私たちが財政で配るのか、市場で配るのかは、お金持ちであろうと貧乏な人であろうと必要に応じて配らなければいけない財やサービスだと社会が決意するのか、あるいは貧しい人々にはゼロでもいい財やサービスだと決意するのか、ということなのです。(p19)


著者は、市場経済は、「市場でおこなうこと」と「財政でおこなうこと」の二つが機能することによってはじめて成立するものだ、ということを強調する。
その「財政」は、何によって成り立つのかといえば、基本的にはもちろん税収である。
「税」に関する部分は、この本のなかでも、とても興味深いところである。
税金は、国家によって強制的に徴収されるお金である。この(個人や企業にとっての)強制が、「私」にとって肯定されるべきものとなるとすれば、それはここで言われている「財政」、つまり財やサービスの公共的な再分配が、「私」の生にとって根本的に(ときには私の欲望に反してでも)望ましいものである場合だろう。
この本を読んでいると、そういうことも考えることになる。


「税」を論じた第3章のなかでは、税についての考え方に「利益説」と「義務説」のあることが紹介されたうえで、この「利益説」で言う「利益」とは、功利主義的な利益ではなく、「社会を形成するという利益」(p61)である、ということに注意がうながされる。
つまり、人が他人とともに生きる場としての「社会」という概念が提示され、それを形成するという行為の重要性に「税」の徴収と支払いが結びつけられる。それは、私の私的な利益を越えた、他人の生存や生活に関わる場の形成と維持を、人が生きるうえのもっとも基本的な事柄としてとらえるという発想の、ひとつのあらわれではないかと思う。


たとえば、累進課税というものがある。
所得が増えていくほどに、税金の金額をではなく、税率を上げていくというこの考え方は、「私」(個人)や「私たち」の存在や欲望をもっとも基本的ととらえる限り、直観的に呑み込みづらいものであると思える。
だが、人が生きるうえでのもっとも基本的な部分が、著者が考えるように「社会」という共同的な場の形成に関わるのだとすれば、より多くの富をもつ人に、より多くの税率をかけて負担してもらうということ、その税収をより貧しい人たちのために用いるということは、ひとつの合理性をもつシステムだということになる。
要するにこれは、人が(そして、もちろん私が)生きることの根本的な目的をどう考えるかということに関わってくる。それは、「私の欲望」の実現なのか、「他人とともに生きる場の形成と維持」なのか。
しかし、この二者択一は不毛に思える。「社会」は他人や私がよりよく生きるために必要な場であって、その「他人がよりよく生きる」ということが、「私の欲望」のもっとも根本的な部分をなしている。そう考える方が、ぼくの実感に近い。
言い換えれば、ぼくにとって重要なのは、社会よりも、むしろ他人の生である。そしてもちろん、それと不可分なものとしての自分の生だ。
そのよりよい実現のために、累進課税というシステムが必要なら、それを行えばよい。そういうふうに思う。


累進課税」のような制度を(もっと広く言えば、「財政」だの「再分配」だの「公共性」だのを)導入すると、市場の力が衰え、社会全体が貧しくなってしまう、という反論はもちろんあろう。
だが、社会が豊かになる根本的な目的を、「自分だけでなく他人の生存や生活をよくする」ことであると考えるなら(ぼくは、そのように思うのだが)、たとえば「累進課税」を導入しないことによって、つまり徴税による再分配を極力行わないということによってもたらされる「豊かさ」は、この目的にかなっていないことになる。
だから、この「根本的な目的」に、よりかなうような別の手段が、模索されるべきであろう。
この本で述べられている「財政」についての論述と提言は、その試みであると言える。



もう少し、本書の記述に即して書こう。
たとえば、その累進課税について、いまの日本では実際には「超過累進」という方法で行われていることが書かれている。

たとえば「四〇%の所得が課税される多額な納税者」といっても、その人が課税されるのは超過した部分に四〇%なのです。四〇%まるまるとられるという印象の表現になっていることがありますが、そういうことはありません。(p65)


恥ずかしい話だが、ぼくはずっと「まるまるとられる」のだと思っていた。久米宏の「ニュースステーション」などを見ながら、「それじゃ、誰も働く気にならないよなあ」と漠然と思ってた。
でも、そういうことなら、ずいぶん話が違ってくる。
また、日本の所得税は実際にはほとんど累進的になっていないことも説明されている。
この本を読んでると、そういう「目からウロコ」のような思いをずいぶんする。


もう少し、税金に関する部分を紹介すると、税金のとり方の制度と、社会保障のあり方とは、どの国でも深く結びついているということが書かれている。つまり、租税制度は、その国のあり方の思想を示すものでもある、ということである。
ヨーロッパの国々では、消費税率の高いところが多いが、それは一方で社会保障が充実しているからである。だから、貧しい人たちにもそれなりの(税の)負担を要求することが出来る。逆に、アメリカのような、個々の「責任」を強調する社会では、所得税という金持ちにより大きな負担を強いる税金の比重が高く、それによって社会秩序を維持していこうとしている。
ここから、もし日本がアメリカのような個々の「責任」を強調する社会を目指すのなら、消費税ではなく、所得税増税によってその財源を確保するべきだ、と著者は書く。


総論として、日本は先進国のなかでも最も所得再分配機能が小さい「小さすぎる政府」であるため、財政が社会の危機に対応できていないことが、問題の本質であると著者は主張し、具体的な将来へのプランが示されることになる。

日本では、政府が財政責任を放棄してしまっているのです。(p183)


細部の記述はやはり難しいところも多いが、経済や社会について考えなおすきっかけを与えてくれる、たいんへん面白い本だと思う。