対北朝鮮経済制裁を批判する

先日、日本政府が対北朝鮮経済制裁の一部解除の方針を示したことに、反対の意見が多く出された。
以下では、この経済制裁そのものに反対するとともに、それら「経済制裁」論を批判する。


「手段としての経済制裁」論への批判

日本が制裁を続けてきたことと、拉致問題の解決や進展との間にどういう因果関係があるかは証明できないはずだが、かりに「制裁の効果」があったとしても、基本的に経済制裁は行うべきでない、というのがぼくの考えである。
そもそも何のために経済制裁をしているのかがよく分からないのだが、政治家などが言うように(拉致問題解決のための)交渉の「圧力カード」として、この方法を用いているのだとしよう。
だがいずれにせよ、この国では、制裁によって実際に深刻な被害を受けるのは、政権ではなく一般の人たち、とくに貧しい人たちだろう。
制裁によって経済が悪化すれば、この国の状態では、ただちに多くの人の人命が危うくなることが考えられる。だから、この方法が、ある(もしくは何らかの)政治的目的のために、弱い立場の人たちを犠牲にする可能性が極めて高いものであることは間違いない。
ゆえに、反対である。
またたとえば、万景峰号によって、朝鮮に住む親戚に日常物資を送ってたりする人は、今でも少なからず居る。そのなかには、生命や生活にとって、本当に必要不可欠のものもあるだろう。そうした流通の流れのようなものまで、止めてしまうことはしてはいけない。
拉致の問題をすぐに持ち出す人が多いが、相手が非人道的なことをして、またそのように思える対応を続けているからと言って、こちらも報復的に同じ事をしてよいということにはならない。
拉致問題を解決(救出)するための手段として、経済制裁を行うということは、間違っている。
北朝鮮に対する経済制裁は、非人道的である。だから、これを政策とすべきではない。
まずはそう思う。


だが、この論に対して、当然、次のような反論が出てくるだろう。
拉致被害者救出」や「独裁政権からの人々の解放」(体制の打倒ということだが)という目的のために、「貧しい人々」を犠牲にすることは人道に反するとお前は言うが、その逆はどうなのだ。つまり、「貧しい人々」を犠牲にしないことのために、拉致被害者や体制下で苦しむ(とくに反体制的な)人々を犠牲にすることは非人道的ではないのか、という反問である。
たしかに、この反論には、即座に答えられない。どちらの選択も、非人道的でありうる。どちらがより非人道的であるかという判断は(それを数値によって比較することが適当であるとすればだが)、それぞれの人の立場や考え、情報等によって異なるだろうが。
実際に、「経済制裁」が、人道的な問題を解決(救済)するための最善の方法である(あった)例は、現代史においていくつかあげられるはずだ。


少なくともここで言えることは、どちらの選択も人道の立場からは、無誤謬・無実ではありえない、ということだ。
ぼくは、経済制裁が実効的に、朝鮮の人民(政治的立場を問わず)にとっても、拉致被害者にとっても、最善の方法であるとは、まったく考えない。同時に、後に述べるように、この方法は、われわれ自身にとって悪である、とも思う。
だが、この方法を否定し放棄したとしても、それが人道的に正しい選択であると、ただちにはいえない。ぼくの判断が仮に正しかったとしても、そうは言えないのだ。
ぼくが経済制裁という手段を否定する最終的な根拠は、「人道」というような普遍的な価値にあるとは言えない。また、歴史責任に関わる倫理的な判断を、ここに持ち込むことが、どこまで妥当かも、自信がない。
ただ、少なくともこの二国間関係においては、より広くはアジアにおける諸国間の関係においては、「経済制裁」という方法が、(拉致問題や人権問題など、当面の課題の解決にとってさえ)良い策であるとはいえない、という直観的な判断に基づく、相対的な選択の主張だとしか言えない。
だがそれを認めたうえで、日本はこの国に対して「経済制裁」という手段を用いないという積極的な意思表示を、朝鮮のみならず、アジアに対して、また世界に対しても行うべきであると考える。
これが結論である。



レイシズムとしての経済制裁論とその欺瞞

だが実際のところ、日本の世論はほんとうに、たとえば「拉致被害者の救出」とか、(少数意見だが)「北朝鮮国内の人権状況の改善・救済」といった目的達成のための方法として、「経済制裁」という手段、その継続を支持してるのだろうか?
ここに、もっとも疑いをもつ。
つまり、世論がこれを支持する本心は、それが「拉致被害者救出のため」ということに名を借りた「報復」であるから、いやより正確には、「報復」にさえ名を借りた文字通りの「制裁」や「処罰」、その形をとった自己の排他的攻撃性の発露であるからではないか。
それならば、「経済制裁」のもつ具体的な目的達成のための有効性がさして議論も考慮もされず、他に有効な方法があろうとなかろうと、全面制裁の貫徹という方針があくまで主張されることにも、納得がいく。
これは、自分が「敵」とみなした憎い相手、それ以上に、危険で共存したくない不気味な相手に、ともかく(報復的な)攻撃を加えたいということ、といっても軍事力を使うわけにはいかないので、兵糧攻めにしようということであろう。
そのためには、誰かが窮乏して死んでしまっても致し方ないということ、むしろそれを望むということなのである。
拉致被害者の救出」という目的さえも消えていて、不気味で不快な相手を叩き、苦しめたいという欲望、できれば相手の存在、それも政権のみならず、そのもとにある一般民衆をももろともに、消し去りたい、殲滅したいという願望である。
集団的な憎しみや嫌悪の感情にもとづく攻撃、殲滅への欲望。これはまさしく、レイシズムと呼ぶべきものだろう。
これは無論、(拉致被害者を含めた)人命、人道、人権の尊重ということとは、まったく相容れない話である。


にも関わらず、ぼくが一番憤りを感じることであるが、一方では経済制裁の継続という強硬な手段を主張しながら、その一方で北朝鮮の人権問題とか、一般民衆の困窮というような「正義」じみた主張をする人がいる。
万景峰号など、交流を許すと、軍事物資や資金などが送られる恐れがあるから」とか、「人道支援も何に流用されるか分からないから」とか、「日本が救援を止めても中国とかアメリカとか、他の国が支援するから、餓死する人は出ないだろう」とか、いろいろ言い分を言う人もあるが、要は「民衆に多少の犠牲が出ても兵糧攻めにして、あわよくば殲滅する」という思惑が、「経済制裁」絶対論の背景にはある。
多くの人(一般国民)にとっては、「拉致被害者の救出」も、どうでもよいのである。「正義」や「救出」に名を借りて(さらには「報復」にさえ名を借りて)、近隣の不気味な対象を抹殺するということ、しかも正義や人道の名のもとに、この報復と排除を正当化したいということだ。
それなら、正直に言えばよい。「どうしても許せんから、こちらは自分たちがやられた以上のことを、やり返してやるのだ。そして、ああいう国は(国民もろとも)消えてなくなるのが一番よい。」と、相手にも国内にも、国際社会にも宣言すればよい。
「正義」や「人命」「人道」などと、自己欺瞞の言葉を口にするなというのだ。


「報復」について言うなら、「相手にひどいことをされたのだから、こちらもやり返そう」という考えは、まあそういう気持ちになる人がいるということは、すぐにはどうしようもないのかもしれない。
「報復」の正当性をここで持ち出せば、日本が朝鮮人に対して過去にしてきたこと、現在もしつつあることはどうなるのだと、ぼくは思うが、そういう気持ちでいる人に、それを言ってもたいがい聞く耳は持つまい。あえて聞かないようにしているのだから。
それに、たとえば拉致被害の関係者など、そのような「冷静な認識を持て」と要請することが、暴力になってしまうような境遇の人たちは、たしかにいるだろう*1
だがそれが、世の中の多数意見のようになってしまうことは、われわれの社会の全体がレイシズム的な欲望に、つまり属する集団によって人の命の価値に差別を設け、不快な集団に属する他者を抹殺してしまおうとする欲望(欲動)に飲みこまれること(それは、「報復」の収奪でさえある)を意味するだろう。これはぼくには、とても同意できないことだが、ここでは仮に、それも仕方がないということにしておこう。


だが、自分が憎いからといって、もしくは嫌な相手、共存したくない隣国だからといって、ふつうの民衆(人たち)のなかに困る人が出ることが分かってるのに、人道支援まで含めて流通の流れを絶つ、経済制裁を断固継続するという主張は、「人道」や「人権」や「人命」ということとは、もはやまったく相容れないものである。
だから、この主張をする人は、そういう看板だけはおろすべきだ。
人がレイシストでなくなるためのはじめの一歩は、自分がレイシストであることを否認しないことである。


付記:日本政府が行っている「経済制裁」のうち、たとえば一部の口座の凍結など、措置を継続することが妥当なものがあるかもしれない。だがそれを、「経済制裁」という枠組みで行うことには反対である。

*1:そうした認識をもつことができない位置に追い込まれていることは、想像を絶する不幸であり、その責任の一端を、この日本社会の一員として自分も負っていると思う。だが、それと同様の責任を、過去と現在の全ての(とくに)在日の朝鮮人に対して、ぼくはよりいっそう深く負っている。