生田さんの反論を読んで

生田武志さんが、生田さんの文章について書いた当ブログの最近に記事について、ホームページで批判・反論を書いておられる。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays11.htm


生田さんが『フリーターズフリー』創刊号に書かれた論考「フリーター≒ニート≒ホームレス」については、近日別に感想をややまとまった形で書こうと思うが、ここでは先に、今回のホームページ上の文章を読んで思うところを簡単に書いておきたい。


はじめに書いておくと、たしかに、生田さんの論文やホームページの文章を批判的に書いた、ぼくの二つのエントリーには、言葉の足りない部分など、いたらない点が多かったと思う。そのことで、ご本人が不快に思われたのなら、ぼくとしては謝罪したい。
とくに、今回の文章の最後で生田さんが書かれている、

Arisan自身、「代案など何もない、ただの悪口みたいなもんだ」と書いているが、批判する相手が目を通す可能性があるブログやホームページに書く以上、中途半端な批判(悪口)は相手に失礼だ。書くなら、相手に何か一つ深く考えさせるか、それとも論破するつもりでやるべきではないだろうか。


という部分は、まったくおっしゃる通りであろう。


しかしそのうえで、今回書かれた生田さんの文章を読んでも、やはり首をひねる点はある。
生田さんが前半で批判を書かれている、ぼくの「生田武志氏のホームページの文章への不満」というエントリーに関するくだりだが、それについてはこう思う。
生田さんは、いわゆる商業誌の編集者が「被雇用者」だから、消費者である読者に遠慮して反論(対決)しないのだ、というのである。つまりそこには、こうした経済上の立場ゆえの「しばり」がかかっているのだという。
生田さんたちが、「自分たちが出資して雑誌を作成した」のは、こうした「しばり」をこうむることなく、「場合によっては読者と闘うことも辞さない姿勢を立場として保持したことだと思う」と書いている。
しかし、商業誌の編集者が読者に反論しない理由は、そうした立場上の「しばり」だけであろうか。
その理由のひとつは、いたずらな読者との対決から生み出されるものが、編集者たちの望むものではないからではないか。対決や「闘うこと」以外の、共同的な生産の方法のようなものを、これら商業誌の編集者や書き手、作り手が志向しているからではないだろうか。
その場合、市場における交換や流通という形式は、この共同的な生産(コミュニケーションの形成、といってもいい)のための、積極的な選択でありうるのではないか。
ぼくが「資本の力で」というふうに書くときに考えたいのは、この可能性なのである。


もちろん、生田さんたちが、こうした可能性を排除して考えているわけではないことは分かる。でなければ、書店に「フリーターズフリー」を並べようとするはずもないだろう。
また、生田さんたちは、けっして「いたずらな」読者との対決や議論を望むわけでもないだろう。「場合によっては読者と闘うことも辞さない」というふうに、げんに条件法で語られているとおりである。


だが、資本の論理のなかに置かれることから生じる「しばり」から自由であろうとするその姿勢が、結果として、それ自体ひとつの「しばり」に転化する危険はある。
それは、「市場」や「交換」という形態のなかにある、コミュニケーションや連帯のための一定の可能性が、低く見積もられるようになることと関係するように思う。資本主義的な仕組みそのものが独自の積極的価値をもつと言い切れるかどうかまでは分からないが、すくなくともその可能性を低く見積もらないこと、そういう道になにか重要なものが含まれているのではないかという考えを持ち続けることが、このもうひとつの「しばり」を逃れるために大事なのではないか。
そういうふうに思うのである。


ぼくは、自分たちの作ったものが市場のなかで十分な評価をえられないことを、反省的に考える姿勢が、生田さんの言うような意味で「読者との対決」を避けている(禁じられている)ことになるとは思わない。
より売れる商品を、より好まれる品物を作ろうとする態度自体は、別に「卑屈」なものであるとはいえない。
商業的な成功ということは、かならずしも資本主義の論理への加担(屈服)だけを意味するわけではない。
人間の活動は、「市場/反市場」「資本/反資本」というふうに二分して考えられるとは限らない。
そういうふうに考える。


ここまでが長くなった。
生田さんが後半で反論しておられるぼくのエントリー『「フリーターズフリー」生田論文についてなど』に関する部分については、おっしゃっておられることはその通りだろうと思う。
生田さんも、「国家・資本・家族」を相対化することを目指しているわけで、必ずしも「反対」することを目的にしているわけではない、ということはその通りだろう。
フリーターズフリー」に限らず、野宿者支援などの現場の活動においても、そのような戦略的な「国家・資本・家族」との「協力」のスタンスがとられていることは、当然想像されるところである。
そして、いつも言うように、その実践に関して、実践していない自分にあれこれ批判することはできないのである。
だがぼくが、

この「反〜」という枠組みを越えるような柔軟な「協力ゲーム」の可能性が、あの論考からは十分に伝わってこないように感じた。


とまで強く書いたのは、「国家・資本・家族」を相対化していこうとするこの動き、戦略的な行動の主体自身が、いわば自らを相対化する力をいつか失ってしまうこと、自分たち自身が自他の可能性を「しばる」働きをもってしまう危険を自覚できなくなることを考えるからだ。
ここで重要なのは、相対化を目指す側が、自分たち自身のなかにある「国家・資本・家族」と同型のものを、どれだけ自覚するかということであろう。
この自分たち自身の位置の相対化という点で、ぼくは生田さんの文章を読んで、やや疑問を感じるときがあるのである。