議会制について、ちょっと

先日のエントリーの最後に、議会政治にコミットすることと「多数をとろうとする」こととはイコールではないはずだと書いた。
それはどういう意味か。


たとえば、よく「国境を越えた社会運動の連帯」みたいなことが言われる。実際、そういうものは昔より活発になっているかもしれないし、それが大きな力を持つこともあるだろう(シアトルでの場合のように)。
しかし、同時にこういう半面もある。
東浩紀が一時よく言っていたことだが、インターネットの発達により、現在の社会では共通のマニアックな趣味を持つ人同士が国境を越えた共同性を獲得することは、たいへん容易になっている。大阪に住む日本人と、シカゴに住むアメリカ人が、あるアニメ作品をめぐってコミュニケーションを積み上げ、濃密な感性的な共同性を作り上げることは、同じ人が自分の国の社会において趣味を共有しない人と共同性を作り上げることよりも、現在では容易である。しかしこういう共同性は、もともとの狭い趣味の範囲を越えていないという点で、依然としてタコツボ的な状況のままであるにすぎない、というのだ。
要するに、「国境を越えた閉塞」みたいなものが、今日では容易に出現しうる。
これは、マイナーな社会運動についてもいえるだろう。


だがぼくが言いたいのは、そういう連帯の試みは不毛で無力だということではない。たとえ閉塞していても、孤立から抜け出せなくても、そういう連帯の試み自体には、きっと意味がある。また、意味がなくても、やりたいのならやるに越したことはないと思う。


ではそのどこがよくないのかというと、国境を越えた連帯があるということが、社会のなかでその運動が閉じていっているということを見えなくしてしまう場合があるということである。もっというと、開かないでいることのアリバイになる場合がある。
こうなると、昔の共産主義運動の(悪い意味の)インターナショナルというのと同じである。
「国境を越える」ということの意味は、自分たち自身の内なる国境を越えるということの、つまり常に他者に対して開かれた態度をとるということの、きっかけであり、結果でなくてはいけないと思う。
マイナーな社会運動が政党政治に比べて、より閉鎖的であるというわけではないのだが、政治的な運動には一般的にこうした弊害に陥りやすい傾向があるということだ。


こうした傾向をかんがえると、議会制民主主義ということには、ひとつの大きな利点がある。
それは、まさにそれが「間接的」であるということだ。多くの見知らぬ人たちの、さまざまな利益や意見が交錯した結果として、「代表者」という仮の者が選出される。
その過程で、ある代表者を推そうとする人は、自分と意見や趣味の共通性をほとんど持たない人たちに対して、説得を試みなければならない。さまざまな策謀とともに、対話や議論や斟酌の技術が、そこでは磨かれるはずだ。本来ならば。


たしかに現在の世界では、アメリカでも日本でも、議会制のもとで、ひどい法案が通り、ひどい政策が実行されている。
だがだからといって、この制度をやめようという話にはならないだろうと、ぼくは思う。
議会制民主主義が存在していなかった場合、現状が今よりもマシであったという証拠はどこにもない、むしろ逆であろうと思うからだ。議会制民主主義が悪用されてきたことは、この制度を否定し廃棄する理由にはならない。
なすべきことは、この制度の可能性と限界を正確に見定め、その可能性の部分を拡張していく試みであろう。
それはなぜ、どのように利用されるのかという問いと、その最大の利点というべき、見知らぬ人々、遠い人々へのもとへと対話と思考の場を開いていく可能性を、たとえば国民国家の枠を越えて追求するということ。


議会政治へのコミットは、もちろんそれが第一義であるというわけではないのだが、かりに多数の議席を得ることがなくても、そうした他者へと開かれてあろうとする意志を失わないための、ひとつの方策でもありうるのではないかと考える。
それが、あのエントリーの最後に書いたことの意味だった。