「フリーター≒ニート≒ホームレス」を読む・その2

前回の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070727/p1

自由のための飛躍の要請

前回は、「Ⅲ 「フリーター・ニート・ホームレス」そしてジェンダー」という章について論じたところで終わった。そこでは、今日のいわゆる「不安定就労問題」が、過去のみならず、現在においても『ジェンダー抜きに語ることが不可能である』という認識が示されていた。

現在、フリーターの六割が女性で、さらにパート労働のほとんどが女性、一〇六万人(2005年)の派遣社員についても女性が六割という現実を考えれば、不安定就労問題はその多くが事実上「ジェンダー問題」だと考えざるをえない。(p242)


これは何を意味しているかというと、現行の社会システムが、「国家・資本・家族」の三極構造(生田)という形で、このような「不安定就労層」を常に必要とし、産出してきたということであり、その役割が従来は女性(や、低学歴層、日雇労働者など)に構造的に割り当て(押し付け)られてきたが、それがいまや、高学歴の男性を含む「フリーター」層の全体に割り当てられるようになった、ということであろう。
この構造を変えていかない限り、社会のなかに「不安定就労」による生活や生存が困難な人たちが生み出され続けるという状態は、景気のいかんに関わらず無くなることがない。これは、生田の持論でもあるだろう。
ここで、かつては企業社会からの「自由」を志向し、いまや自分たちの置かれた不当な位置に怒りの声をあげはじめてもいる「フリーター」層の人たちが、その主観的な枠(それも構造によって押し付けられたものであるとも考えられる)をさらに突破し、その「自由」をさらに徹底させることとして、自分(たち)だけでなく誰もが不当な割り当てを押し付けられない社会を作っていこうとする方向へと転換することが、ひとつの「飛躍」(自由の徹底のための)として要請されているともいえる。

批判のポイント

そして、このようにとらえられる現在の「不安定就労問題」の当事者たちの現実は、産業構造の変化と、人口学的な条件の変化にともなう従来の「三極構造」の解体・失効によって、将来の展望も、また現在を生きるための拠り所もない、暗澹たるものとなっていることが語られる。
ワーキングプアや「貧困の継承」と呼ばれるような状況の拡大である。
生田はここで、先にも少し触れたように、「国家・会社・家族」構造という拠り所を失い、同時に「別の形」の社会への接続をも拒むタイプの若者たちが、「社会的な排除」の状態から逃れるために、『超民族的・あるいは宗教的な共同体』へと回帰していく可能性に、警鐘を鳴らしている。
この人たちの多くにとっては、社会運動が語るような「別の形」の社会もまた、その鋭い倫理的な意識ゆえの「拒絶」の対象となりうるのである。
斉藤環の文章を引用して語る、次の生田の指摘は的を得たものだと思われる。

ひきこもりの若者たちが「活性化され、意欲的に社会参加できる」非日常的な場面とは、震災以上に(志願兵のような)「戦争」でありうる。(p255)


そして、この章の終わりには、次のように結論づけられている。

先祖返り的な共同体ではない形で「社会へのコミットメント」をどう作りうるか、自分がこの社会のなかで生きている価値を、「社会を構成している一員という当事者性」をどう持ちうるか、それがわれわれに今問われつつあるのである。(p256)


この点はしかし、非常に重要な問題をはらんでいる。
じつは、生田のこの論文で、ぼくが一番疑問をもつ点、よく考えてみたいと思う点は、このあたりなのである。
それは、生田の提示するような「別の形」の社会をもやはり「拒絶」の対象とするような人たちの感覚に対して、この「別の形」というビジョンが、ほんとうに従来の社会と異なるものであることを、十分に示しえているかどうか、という点である。
言い換えれば、上山和樹が語ったような「公」や「社会」の像に、生田の考える「連帯」の構想がほんとうに見合うものなのか、ということである。
たしかに、震災(いま現在もそうだが)からの復旧のためのボランティアなどに積極的に参加する「ひきこもり」や「ニート」の若い人たちの行動は、現在の社会のあり方とはどこか異なる他人との関係の「現実性」のようなものを垣間見せていると思う。
だが、そうした活動も、その現場では、集団性や効率性の論理のなかで行われざるをえない*1
それは、社会的な関係の質においては、社会運動が提示するような「連帯」と、既存の体制内的な組織や集団との間に、本質的な差がない、少なくとも同様の部分が存在するはずだ、ということを端的に意味するだろう。
もちろん、そのこと自体に問題はない。
ぼくが言いたいのは、ここで「連帯」や「別の形」の社会を語る側に問われるのは、そうした自分たち自身の活動のなかにある権力性、「別の形」を志向し標榜するあまりに身に帯びてしまう旧来の「国家」との同型性を、どれだけ自覚し批判できているかであろう、ということだ。
生田のこの論文では、彼のいう「国家・会社・家族」のうち、後の二つについては非常に深い分析が展開されていると思うが、「国家」に関する部分、つまり政治的な運動体の権力構造の分析については、まだ甘い部分があるのではないかと思う。
それは、自分たちの「内なる国家」への自覚・批判が、まだ十分でないことを意味するのではないか。
それが乗り越えられるとき、「別の形」の社会、生田が語る「連帯」への方向付けは、より多くの人の協力を呼び起こすだろうと思うのである。


この点に関していうと、たしかに

社会構造に対する闘争の姿勢を持たない場合、それはNPONGOの産業化・行政化を招く結果になりかねない。(p277)


と指摘され、NPONGOの「国家=行政」化、「資本=産業」化に警鐘が鳴らされてはいる。
しかし、その国家を批判する側の自分たち自身が持つかもしれない権力性への自覚や分析は十分であろうか?
そうした自己の権力性への批判をともなわない「反国家」の集団性は、たんなる現行の「国家」のミニチュアに帰結してしまうものであると、ぼくには思われる。


さきに、フリーター個々の「怒り」が、自分だけでなく誰をも不当な位置に置かないための構造そのものの変革へとつながっていくためには、「飛躍」が要請される、と書いた。「飛躍」が必要だということは、そこに亀裂が走っている、ということである。
そこに、その亀裂を利用して、人々を別の形の権力の仕組みのなかに取り込み、組織化するような働きが、知らぬ間に生じてしまう余地もある。
「倫理的な意識」がたじろぎ、ゆれるのは、この場所だろう。



社会変革と自由

それを念頭において、この論文の残りの部分をさらに少し見ていこう。
「π 「Ⅳ」へ向けての間奏」という章で述べられているのは、先にも述べた「構造そのものを変える」ということの必要性である。
たとえば企業側がすすめる雇用のあり方の変化に対応して、個々のライフスタイルを柔軟に変化させていくという対処の仕方は、結果としては、一定の不安定就労層を必要とし、生み出し続ける『日本の「労働・家族・ジェンダー」構造』の強化につながってしまう。
個々人が生活や生き残りの手段として、どのような個人的・主観的な対処をしたとしても、どこかに不安定で不当な経済状態に置かれて苦しむ人が構造的に生み出され続けるという全体的な現実を変えることにはまったくつながらない。
だから必要なのは、「国家・資本・家族」という三極構造そのものを変えていくことである。
そのことが実証的に述べられているわけだが、これは「自由」の課題としては、「構造そのものからの自由はまったく得られていない」というふうに翻訳できるだろう。
「自由」の立場からみれば、「私」がなんらかの満足や自足を得られるならそれでいいことになるではないか、という素朴な考えに対して、その「私」を規定している構造そのものを変える形でしか、他人とともにある自分の存在の解放、ほんとうに徹底した自由というものはえられない、という考えが提示されているといえる。
「Ⅳ 労働・家族・ジェンダーのリストラクチュアリング(闘争としての協力ゲーム)」という章への受け渡しは、このことをめぐって行われていると読むことができる。


上に述べたことを、生田は(従来の)「国家のため」「会社のため」「家族のため」だけでなく、「(自分の望む)社会のため」という新たな労働のインセンティブが生じてきたこと、としてとらえようとしている。
こうした受け取り方は、上山和樹のいう「公」「社会」という理念を意識したものであろう。
そして、ぼくの言葉でいうなら、他人とともにあるという「私」(自由)の本来のあり方、したがって「社会的な私」「社会的な自由」へと欲望や願望を徹底化していくことでもあるのではないかと思う。

連帯のために

とくにこの章での生田の論述は、この方向の必然性を社会構造の視点から説明しているものとして読める。
ぼくが読んでいてもっとも面白かったのは、フリーターが感じる「心理的な自由」が、実際には会社・資本による支配との同一化、その強化しかもたらしていないこと、またそのことが南北間の経済格差や環境破壊をおしすすめることにもつながっていることを批判する、p275前後の記述だ。
たしかに、「資本=会社」の競争ゲームからある程度降りることに適応したライフスタイルの変容、生活上の個人主義(ミーイズム)のようなものが、他者との関係において見るなら自己の構造的な加害性への否認のうえに成り立っているのではないか、という倫理的な意識、後ろめたさのようなものは、多くの人が抱えているだろう。
「自由」の突き詰めを前のめりに主張する、ときには右派的でもある言説が、無視できないリアリティをもって響く背景には、この、フリーター的な生の「飼い馴らされた」(杉田俊介)自足に対する苛立ちがある。倫理的に鋭敏なものほど、この否認による「自足」の苦しみに苛まれざるをえないのだ。
そしていうまでもなく、いまや現実には、この「自足」という虚構性の維持さえ不可能なところに、フリーター的な生は追い込まれている。加害性を否認することによって強化される構造的な締め付けは、フリーターたち自身の身を締め上げているのである。


生田はここで、『日雇労働者とフリーター層、そしてニート・ひきこもり層の「闘争としての協力ゲーム=共同闘争」』の必然性と必要性を主張する。
それは、たしかに正論なのだ。
しかし同時に、「共同闘争」という集団的な言葉に回収されないような感覚、倫理性の芽のようなものが、苛立ち追いつめられた一人一人の心と体のなかに残っていることは忘れるべきでない。他者との連帯や集団性のほんとうの基盤は、その残余のような脆い部分にしかないはずだからである。


(了)

*1:別に「戦争」を持ち出さなくても、震災の支援の現場でも、もっとも強力な支援活動を行っているグループのひとつは、自衛隊だろう。