『いつか王子駅で』

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)


先日書いたように、小説にくわしい友人のすすめで、この本を読んだ。
2001年に単行本として出版された、著者のはじめての長編小説であるらしい。
都電荒川線沿いに住む、作者の分身を思わせる「私」という人物と、周囲の平凡な市井の人々との交流を、熟達した職人の刃先から生み出されるカンナ屑や旋盤の削り屑のような、しなやかに曲折した独特の文体で描いている。このたとえは、小説のなかに出てくるものを、そのままパクッてみたのだが、実際そんな感じの文章である。
読んでみて、なるほどとても水準の高い作品だ。エリモジョージキタノカチドキテンポイントテスコガビーといった名馬の名前と話がつぎつぎに登場することも、競馬ファンにはうれしい限りだ。
だが、保坂和志の熱心な読者である友人にはわるいのだが、保坂の作品と比べると、ぼくには食い足りない、あるいは気に入らない部分がある。そう思った*1
一口に言うと、堀江のこの小説は、ぼくには「面白いがつまらない」ものだと思えた。
どういうところに理由があるんだろう。


独身の一人暮らしで、経済的な余裕があるとも思われないこの「私」がもつ、人生についての「倫理」や美学は、たとえば「目的のない純粋な暇つぶし」としての「待つこと」という言葉を使って語られている。

混線した黒電話のように、ともすれば回復不能になる危険と隣り合わせのまま「待つこと」への憧れを捨てきれないからこそ、私の前には経済力と反比例して時間ばかりが堆積していくのだろう。(p86)

退屈さに耐えることでなにか利益を得たり、そこに蓄積した時間をべつの領野へ切り売りするような愚は犯さず、完全に無益で無為な、充溢した時間のなかに身を置いているのだと信じていたい。(p96)

こんな感覚から、「私」は単調で平凡な日常の生活のなかで『幽閉された回遊魚としての矜持』(p67)のようなものを持ちつづけようとしており、またその生き方を貫いてきたと思える周囲のいわば無名の人たちへの敬意と賛嘆を惜しまない。そしてその気持ちが、その人たちと同様の職人的な真摯さによって言葉による作品を作り上げてきた日本近代の何人かの作家への愛着としても語られる。


このことからも分かるように思うのだが、この小説に書かれている無名の「庶民」の像の中核をなすのは、「職人」のイメージであり、そして実はそれは文学者であるこの小説の書き手の職業的な理想像を投影して作り上げられたものだと思う。
つまり、ここに描かれている平凡で無名な、だがどこか感動的でもある「庶民」の姿は、書き手のなかにある理想の自己像、ただしたぶん集団的な自己像の投影になっているのである。
だから、どれほど見事に叙述されても、ここに出てくる他人たちは、「私」の期待や予測を裏切ったりはしない。裏切ったとしても、その裏切り自体が「私」の理想の枠内にある。
その点が、ぼくにとってはどうしても面白くないのだ。
比較するのが妥当かどうかわからないが、保坂の小説に出てくる「他人」は、一筆書きみたいに描かれている場合でも、どこか不気味であったり、書き手自身にとっても見通せない部分を持っている存在であると思うが、堀江のこの小説に登場する市井の人々に、そんな不透明さや不気味さは微塵もない。


もちろん、作者自身が「私」と同様に「幽閉された回遊魚の矜持」のようなものを自分のスタイルとして選び取ってるのだろうから、「ここに他人が描かれていない」という批判は、的を外したものでしかないかもしれない。
だとすれば、作者は自分の予測を裏切るような他人の存在を描くことを断念するという選択をあえてしたことになる。そのことによって保障されるものはなにかといえば、不安や不透明さにまったく脅かされることのない、日本語という言語による(コミュニケーションの)空間である。
「他人が登場しない」この小説の世界は、そういう選択によって意図的に作り出されたものだといえるだろう。
この「私」の選択の底にあるものは、たとえば次のように書かれている。

二十歳の私は、山間部を走る高速道路のサービスエリアの喫茶コーナーで完璧なサンドイッチと完璧な珈琲を出すような仕事をしてみたいと夢見ることがあった。いや、中年に差しかかったいまでもまだそんな夢を捨て切れていないのかもしれない。長距離輸送のトラックと深夜に移動するわけありの乗用車を待ちながら、ぜったいに手を抜かない軽食を提供しつづけることで、なににたいしてかはわからないながら、そのわからないなにかに抵抗したい、というような。(p78〜79)


これは一口にいうと、「反グローバリズム」ということだと思う。
押し流され、なし崩しにされていくことへの抵抗が、日本語という言語によるしなやかで強靭な空間を作り上げるという至上命題へと書き手を向わせ、その方策として「現実の他人を描かないこと」という方法上の選択がなされる。
そうなっているように思う。
それは抵抗としての(言語的・文学的な)ナショナリズムと呼びうるものかもしれず、そこにたしかにこの小説の魅力もあるのだが、しかしぼくは、最終的にはそれをやはり「つまらない」と感じるのである。
じっさい、いまどき「反グローバリズム」以外の形で小説が書かれるとは考えにくいのだが、この「抵抗」の形には、どうも展望が、いや面白みがなさすぎるように思うのである。


ところで、「私」が称揚する「待つということ」の、いわば社会的・政治的な意味があらわになるのは、次のような箇所でだ。

なるほど「のりしろ」か。私に最も欠落しているのは、おそらく心の「のりしろ」だろう。他者のために、仲間のために、そして自分自身のために余白をとっておく気づかいと辛抱強さが私にはない。いま咲ちゃんと、ダイジェストというのかあきらかなリライト版でたどっているトム木挽きあらためトム・ソーヤーの、「待つこと」を知らぬせわしない動きが『あらくれ』のお島が見せたせわしなさと似て非なるものだと感じられるのは、後者の心に細い点線で区切られた「のりしろ」がないせいではないか。そこに糊をきちんと塗らなければ形が整わない、最後には隠れてしまう部分に対する敬意を、彼女が有していなかったせいではないのか。咲ちゃんといて疲れないのは、あっはと美しい歯を見せて笑う表向きの明るさや屈託のなさのせいだけでなく、周囲にいる人間に対していつも「のりしろ」になれるような、生まれつきの余白が備わっているせいなのかもしれない。(p159〜160)


「待つということ」を至上の価値とかんがえる「私」にとって、忌むべきものと思われるのは、徳田秋声の『あらくれ』の主人公、「お島」のような「待つこと」を知らない存在である。
そうした存在は、「私」の抵抗の空間のなかでは、その抵抗の強度を弱めるものとみなされて、排除されることになる。
逆に求められ、賞賛されるのは、「咲ちゃん」のような「生まれつきの余白が備わっている」かのような無垢な存在、コミュニケーションの項というより、透明なコミュニケーション空間そのものを体現しているような、いわば空っぽの存在である。正確には、「私」がこの存在を欲望する、グローバル化する世界への抵抗の拠点として。
だがそのとき、「私」はむしろ、グローバル化する世界の論理そのものと化してしまっているのではないか?つまり、これは実際には、抵抗とはもはや呼べないなにかだ。


たしかに、心の「のりしろ」を持とうとすること、そうした部分への敬意を失わないことは、私(たち)の態度としては好ましい。
土地や町並みや「人々の心」や「手仕事」を蹂躙するグローバリズムの猛威が荒れ狂う世界だからこそ、「のりしろ」を尊重する心は、ますます大切だといえるかもしれない。
それによって形成される滑らかなコミュニケーションの空間は、猛威に侵犯されない貴重な世界の存続や復活をもたらすかもしれない。
だが問題は、「のりしろ」や、それを尊重する心の余裕は、そもそも誰のために必要とされるのか、ということだ。
この小説では、現実の女性(他人)の存在は「咲ちゃん」という理想像のなかに押し込められ、「咲ちゃん」のなかの「お島」は、いなかったこと、見えないことにされてしまう。
コミュニケーション(そして言語)とは本来、「お島」のような存在を肯定することによって、はじめて生じてくるようなものだと思う。そんな存在を排除したところに生まれるコミュニケーションは、幻影のようなものにすぎない。つまり、「抵抗」する力がない。
心の「のりしろ」や「余白」は、その余白をもつ可能性、コミュニケーションの空間に入る可能性を奪われている、そうした存在を受け入れるために、そのためにこそ必要とされる、共同体の美徳(倫理)であり、人々の抵抗の戦略なのだ。


この小説は、しなやかで強靭な、非常に高いレベルの日本語の文章によって書かれていると思うし、書いてある内容も、それにふさわしい厳密で正しいことである。
だがそこには、そうした言語による完結した世界が、そもそもなぜ必要とされ可能になったのか、その言わば「外部」に対する意識が欠けている。
だからそれは肝心なところで、「抵抗」としての力をもつことができない。
言い換えれば、たんに「つまらない」のである。

*1:保坂の作品をまったく気に入ってるかというと、そうでもないのだが