自立について

雑誌『フリーターズフリー』に掲載された杉田俊介さんの「無能力批評」を読んでの感想を書いたぼくの文章に、杉田さんがわざわざブログで応答を書いてくださっている。
それを読んで思ったことを少し書いておきたい。

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070718/p2

ただ、ここで「杉田は否定の人」で、「Arisanさんは肯定の人」という単純な図式は当てはまらない。


 杉田のベーシックな感覚は


 《人は自立しなければ生きる価値がない」(自由の課題)。「人はたんに生きているだけでよい」(生命の価値)。前者は正しい。後者も正しい。しかし両者は矛盾する。どういうことだろう》


 というアンチノミー(矛盾)をいかに螺旋状の深化するか、にあり、ぼくの中には極端な内なる自立欲望(自己批判)があると同時に、「自分がある幸運な状況のなかに生きているということを、基本的に肯定的に考えている」という感覚もまた、深く根付いているようなのだった。ウーマンリブ田中美津はそれを「取り乱し」と呼んだのだと思う。


ぼくの文章は、杉田さんご自身の言葉を用いるなら、まさにぼくが「取り乱した」結果の文章である。杉田さんの「無能力批評」には、ぼくを「取り乱させる」力があったということである。もっと言えば、さらなる「取り乱し」の突き詰めをそそのかす力が。
そしてその力は、上の文で言われている「アンチノミー」を徹底的につきつめようとする杉田さんの生き方から出てきているもので、そうした「葛藤」をそこまで突き詰めていないという弱みをつかれたところに、ぼくが「取り乱した」大きな理由があるだろう。そこから、ぼくのあのエントリーのなかの、「欺瞞」という言葉が出てきている。
だから、ぼくが「基本的に肯定的に考えている」と書いたのは、半分は嘘である。その嘘や欺瞞を否認せずに、もっと「取り乱し」を徹底させろ、そういうメッセージを杉田さんのあの文章から感じとったのではないかと思う。


そこを確認したうえで、上の杉田さんの文章について。
「人は自立しなければ生きる価値がない」。この言葉を、杉田さんは「自由の課題」というふうに言われる。
この言葉は、「自由の課題」としては、つまりこの世において私はどのように生きたいか、という「本音」(主観性)の問題としては、反論しようのない面がある。「自立的でない」生き方は、本当は息苦しく、そしてその事実を否認することはなおさら息苦しいと、たしかにぼくも感じている。
杉田さんの「極端な」「自己批判」なるものも、ここから発している限りは、そしてその限りにおいてのみ、「肯定的」であるといえる。つまりそれは、他者の存在の肯定へとおのずから、あるいは不可避的につながっていく、自己の解放のための水路として存在するだろう。


たしかに、ほんとうはあらゆる意味で完全に自立して生きるということは、人間には無理であり、それを目指すことは無意味とは言わないまでも錯誤のようなものだともいえる。社会生活のなかで、家族や、国家や資本(市場経済)といった諸制度のいずれかに、ひとは帰属して生きざるをえない。それは、自分以外のものにある程度依存しているということを意味する。経済的にも精神的にも、上記のどの部分(制度)に依存するかという違いはあるが、まったくの自立ということは、どんな場合にも、おそらくどんな時代にもありえない*1
だが、それでは、自立を目指すことに価値がないかというと、もちろんそんなことはない。常に「より自立的であること」を目指して生きる。それこそが、私が生きていくうえでの大いなる価値であるだろう。「自立的に生きる」ということが、本人の生において不当に禁じられているとき、その価値はとりわけ重要な意味をもつはずだ。
つまり、杉田さんの「人は自立しなければ生きる価値がない」という言葉は、実際には「人は自立的に生きようとしなければ価値がない」、とも言い換えられるのではないか*2


だがここで、「人は自立的に生きようとしなければ価値がない」という場合の「人は」という主語は、適当なものであろうか、という疑問が生じる。
この主語は、「私は」以外にはありえないのではないか*3
つまり、「人には自立的に生きる権利がある」というふうには言えても、「自立的に生きよ」と当のその他人に向って言うことはできないのではないか。杉田さんも、「無能力批評」で、まさにこの点を重視しておられたと思う。

自分をまずは許したがる優しさからは、他者への寛容さは自然に染み出さない。むしろ、呵責ない自己吟味から濾過される他者への寛容さ、それを通してこそ、はじめて、自分で自分をゆるす気持ちが自然に内分泌され、全身を血液循環して俺の生理を活性化/改善していく――即効薬ではなく、漢方薬のように。それは自己規律=内なる優生思想とほぼ同じでありながら決定的に異質な何かだ。正確には、自分に適用する自立の命令(俺はもっと自立しろ)を他者に向けてそのまま適用する時(お前はもっと自立しろ)、言葉のその伝達過程で、不可避に微小な内部抵抗=異和が発生する。(『フリーターズフリー』創刊号p047)


だが、なぜ他人にそう言うことはできないのか?
これは、「道徳を押し付けてはならないから」とか、「他人の生き方(生の価値)に介入してはいけないから」という理由によるのだろうか。
そうではないと思うのである。
それは、これが「自由」に関する事柄だからであろう。「自由」の水準で言う限り、人は「私は」という以外の主語を使えないのだ。この水準では、「私」と他人との間の同質性は前提されていない(無根拠である)。
「生存」については、そうではない。そこでは、私と他人とは、同質・同等の存在として考えられ、扱われねばならない。*4
「自由」に関する限り、私は、私以外の存在について、その当の相手に向っては、(自分自身に言い聞かせるようには)「〜であるべきだ」というふうに言うことができないのだ。
それは、他人の自由(リベラリズム的な)を尊重するからではない。そうではなく、おそらく「自由」の範囲を「私」を越えてそのように広げてしまうことによって、「自由」な存在としての「私」の孤独さが覆い隠されてしまうからではないかと思う。
そして、この「他人に自立を強いる(押し付ける)ことはできない」という思いが切実に生じてくるのは、杉田さんが語られているように、私の「自由」の孤独さを思い知るという体験を通してだけであるように思える。


このエントリーは、はじめは杉田さんが書かれていることへの違和感を書き、それを自分なりに分析しようと思っていたのだが、書いているうちに、杉田さんが書かれていることを、自分なりに跡づけていこうとするような文章になった。
「人は自立しなければ生きる価値がない」という言葉が、どのような切実さにもとづいて出てきているのかを、自分なりに考えてみるような結果になったのである。

*1:もちろん、何かに帰属(依存)しているからといって、生存が保障されるなどということは実はないわけだが。

*2:ぼく個人に関して言えば、ぼくは家族だけでなく、国家からも資本からも「より自立的」であろうと努力していないわけで、そこに、たとえば今回「有限責任事業組合」の設立・創刊という形で資本の制度からの脱却あるいは改編を目指して行動された杉田さんたちとの差異、そして引け目があることは、前回のエントリーでも書いたと思う。

*3:といっても、杉田さんは、この意味で「人は」という語を用いているのだと思うのだが。

*4:この「同質」という表現は適当でないので、削除しました。