学校の変容と私のなかの無力さについて

先日に引き続き、『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス)を読みながら思ったことを書く。


稲葉振一郎は、「分析的マルクス主義者」などの現代の「科学的社会主義研究」を語る人たちの特徴を、次のように述べて批判している。

で、そこに何が抜けてるかというと、古いことばで言うと、革命論、体制移行についての議論です。いったいそういう仕組みをどうやって実現するんですか、という話です。(中略)つまり、体制移行論がない。(p163)


これは、科学的研究のみならず、左翼的な運動の全般についてもある程度あてはまる指摘ではないかと思う。どういうふうにして体制を変えるのか、よりよいと思われるものに移行させるのかという議論が、あまりなされないようになっている。
稲葉は、それは議会政治の枠のなかでなのか、暴力革命によってなのか、それとも「奇跡」によってなのかと、やや皮肉まじりに述べているが、たしかに「奇跡」を当てにしているかのようなところもある。
現在、体制を変えていく方法として考えられているもののなかで、有力なもののひとつは「離脱」ということだろう。市場経済とか、学校教育とか、そういう既存のシステムから離脱していくことによって、それらを空洞化させ解体につなげる、というような。
しかし、その有効性には疑問もある。
対談者の立岩真也は、別のところで*1、既存のシステムから離脱することで、逆にそのシステムの存続を容易にしてしまう場合がある、というふうなことを言っているが、たしかにそれは考えられることだ。
たとえば、教育基本法の改正(改悪)にともない、そんな悪法が支配する学校には行くことをやめよう(やめさせよう)という論調もよく聞く。これを機会に、学校という制度を否定して、その外で生きよう、育てようということである。
そういう選択は、個々人(また、個々の家庭)の選択としては、妥当であったり、やむをえないものであったりするだろう。だから、それを否定するつもりはない。
しかし、これを社会的な運動の方法としてとらえた場合には、有効なものであるかどうかは疑問である。
というのは、これはぼくの直観のようなものだが、国や行政は、いま、財政上の理由などから義務教育制度を廃止する方向に向かいつつあると思えるからだ。当面、学校に行く子どもの数が減ることは、コストの面では、むしろ国としては歓迎なのではないかと思う。


これは、学校というものを、工場や会社や軍隊でちゃんと働けるような、国民なり主体なりの形成装置としてとらえるという、近代的な学校観にたつならば、考えられないことだろう。
しかし、今や国や行政(もちろん、企業と結びついている)が必要とするものは、必ずしも「主体」ではない。国民教育といっても「主体」としての国民を育てるのではないのだ。企業も工場も軍隊も、その点は同じである。
今や国や企業が育てたいと思っているのは、主体性を欠いた「部品」としての国民、社員、兵士だ。この「部品」の意志や思考の部分は、ありていに言えば、エリートが担当するということである。
この考え方からすると、すべての子どもが学校で教育を受ける必要はない。もちろん、学校に来ないことにより、「部品」になろうとしない人間ができあがると国は困るだろうが、それも含めて「不良品」は一括して排除すればよい。無理に学校に押し込んで、経費をかけて「国民」に仕上げるよりは、うまくいかないものは廃棄する方が安上がりだ。
そういう発想になってると思う。
その視点から見れば、自らシステムを離脱してくれる者たちは、もはやかつてほどは目障りではない、いちはやく「排除」のレッテルが押せる、安上がりな不良品、といった存在に映るのではないだろうか。


だから、総じて、現在のような「ポスト主体的」なシステム、権力のあり方に対しては、「離脱」という方法論の有効性は、薄れてきているように思えるのだ。
では、どういう代案が具体的にあるのかと言われると、答えられないけど。


ところで、やはりこの本のなかで稲葉は、マルクス主義の考え方の重要な特徴であり武器であった「搾取」という概念の有効性が、今日の社会ではすでになくなってしまったと述べているのだが、その当否はともかく、これは重要な指摘だと思う。
彼が言っているのは、こういうことである。
「搾取」というからには、もともと奪われるだけのもの、いわば「力」を大衆や貧しい者たちが持っていなくてはならない。実際、プロレタリアートには潜在的な力があるのであり、それを資本家たちに不当に奪われてるから、その本来の力を取り戻すことによって世界を変えていこうということが、今も昔も変わらぬマルクス主義者の論旨であろう。
ところが、いま明らかになってきてるのは、貧しいものや力を持たない者というのは、それはほんとうに「奪われてる」からそうなってるのか、ということである。稲葉が例にあげているのは、非常に貧しい国の人たちのことで、まず「人的資源」(つまり教育)をそこに投入しなければ、その人たちは「搾取」の対象にすらならない、ということなのだが、これは先進諸国の社会にもあてはまる状況ではないかと思う。

つまりアセット(資産)をもたない、身体一つが自分のアセットであるような状況に放り出されてる人たちとして、奪われるほどのものもたいしてない、労働しか奪われるものがないような存在としての労働者というものが見えてくるわけですね。(p180)


しかしじつは、「奪われるもの」としての労働(力)すら、現代の貧しい人々はたいして持っていない。
それが、貧しい国の人々だけでなく、アメリカや日本の「ワーキング・プア」の現実でもあるだろう。
この人たちに対して、「奪われている力を取り戻せ」という言説が、どのぐらい有効性を持つのか、ということがここで稲葉の問うていることだと思う。


これは、先ほどの教育の問題と重なることだと思う。
抵抗のもととなるような「力」は、もともと人間に潜在しているわけではない。それは、なんらかの制度の働きによって、はじめて生み出されるのだと、ぼくも思う。
ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』では、(これはフーコー的な考え方になると思うが)「学校」という近代的な装置は、工場や軍隊で使用可能な「主体」としての個々の国民いうものを生産したわけだが、同時にそれは「抵抗の主体」をも形成したのだ、と書かれていた*2
人が権力に抵抗するための「力」を持つためには、一定の制度の力(権力)による媒介(介入)が必要なのであり、学校は、そのための場としても機能していた。
といっても、近代的な装置としての学校の機能は、日本では70年代以後急速に衰える。その頃から「運動」が衰退期に入るのも、もしかするとこの「抵抗の主体」を育成する装置としての「学校」の力の弱まりと関係しているのかもしれない。
ところでいま起こっていることは、「学校」という装置の変容である。先にも言ったように、それは今や「主体」ではなく、「部品」としての大人、国民、企業人、社会人、兵士、有権者、視聴者を育成する装置になりつつあるのだ。
ここで言えることは、いまや「抵抗の主体」が育成される可能性のある場所は、公的な空間のなかに存在しなくなってきているということだ。その現状のなかで、どうしていくか。


少し立ち止まって考えたい。
ひとつには、「力」というものが制度の媒介によってはじめて形成されるのだとすれば、逆に「抵抗しない」、無力であったり、またそれとは異なるかもしれないが「従順」であったりする大衆・労働者のあり方、その「非主体」的なあり方も、同様にある種の制度・権力の媒介によって作り出されたものではないか、ということである。
自分を「力」なき存在として自覚する者は、この内なる媒介の過程をよく検証してみる必要があるだろう。
すごく噛み砕いていえば、「運動」や「政治」を嫌悪する私(あなた)は無垢か、どこまで私自身か、というような問い。
それから、この本のなかで立岩が述べているのは、稲葉の言っていることはよく分かるとしても、「搾取されている」という不当さに憤るような感情というものは、今という時代であるからこそ、大変重要なものであると思える、ということである。
ぼくもその意見に同意するが、それは、ぼく自身のこの「非主体」的なあり方を形成している権力の仕組みについて考えていくことと重なるものだろう。

*1:雑誌『現代思想』に連載中の論文の、「ホームレス」特集号に掲載された回の注などで

*2:ドゥルーズ=ガタリは、こうした主体にもとづく抵抗を否定・相対化するわけだが、ここでのぼくの論旨は、それには疑問があるということである