「自分で語ってみる」ことをめぐって

『Freezing Point』さんの、こちらのエントリーは、ぼくにはたいへん重要なことが書かれていると思われたので、紹介しながら、自分の考えも書いてみたい。


「本人が、自分で語ってみる」


もちろん、ueyamakzkさんが書かれている趣旨とは大きくずれてしまうところが多いだろうから、くれぐれもそちらのエントリーの方を、より精読していただきたい。

法学(訴訟法)でいう「当事者」とちがって(参照)、ひきこもりや不登校の支援業界では、「当事者」はもっぱら弱者=逸脱者のことを指すが、そのことが議論を硬直させているように思う。


弱者が為す「当事者発言」は、単に特権化して優遇するためではなく、力関係の分析と再構築のために提出される――そう考えるべきだと思う。弱者を差別的に優遇する態度は、必要な一ステップだとは思うが、「弱者に無理に語らせる」という態度にもなりかねない*1。無理にでも語らせるべきなのはむしろ強者ではないか。(いずれにせよ、言葉の提出は政治的な振る舞いだ)


「本人が、自分で語ってみる」という作業については、法学・哲学・精神分析など、いろいろの文脈を参照して検討する必要を感じている。詳しくは今後の課題だとして、今はその発言ポジションを、大きく次の二つで考えている。


(1) 利害やトラブルの関係者
(2) 差別的に特権化された弱者
既存の「支援」の文脈ではどうしても(2)の意味ばかりなのだが、私はむしろ(1)の一部に(2)があると考え、統一的に考えたい。関係者の全員に対してフェアに考えるフレームを作るには、そのほうがいいと思うから。それに、自己分析の労苦が弱者にばかり負わされるのはおかしい。支援者も含めた関係者全員が担うべき課題だ。


総括的にいえるほど、さまざまな運動や学問の現場を、ぼくは間接的にせよ知っているわけではないが、ただこういう事情がおうおうにして起こりうるものだろうとは思う。
すなわち、いくつかのそうした現場において、「当事者」という言葉には特別な意味合いが込められてしまう、ということである。
つまり、「当事者」という言葉に、それが本来持っているのではない負荷がかけられるという感じを持つのだが、その「本来」というのをどこに設定していいか、ぼくには分からなかった。
ここで語られているように法学におけるこの言葉の意味合いと比較して考えるのは、大きな意味があるかもしれない。
ところで、その特別な負荷によって生じるもっとも大きな、そして根本的な弊害は、「当事者」と呼ばれる本人だけが、「無理に語らせ」られたり、その人ばかりが「自己分析の多大な労苦」を強いられたりする、ということにある。これは、ぼくには十分実感できないことだが、それでも直観的に、正しい見解であろうと思える。
「当事者として語る」ことは、通常考えられるような「特権」ではなく、じつは本人にとっての「桎梏」でありうる。


ぼく自身がよく思うことは、ぼくは「当事者性」ということを、実存性と重なるものとしてとらえるのだが、「実存的な生だけが、(本人にとって)重要な生ではないはずだ」ということである。
これは、人はさまざまな属性の束である、という意味ではない。その人が「当事者」であると呼ばれる、その当の属性についても、人は当事者として語りうる(また語る自由を持つ)と同時に、(可能ならば)非当事者としても語る自由を持つはずである。後者はつまり、客観的にとか、間接的に、自分が「当事者」であることの属性をとらえ、語る自由、ということである。
そして、その属性に関して、「当事者である私」と「非当事者である私」とは、本人は当然その二つを重ね持ち、相互の間を行き来することがあってよいはずである。
ところが、そうした「自由」は、現実には保証されていない。つまり、あることに関して「当事者」と呼ばれる私は、常に「当事者である私」でのみあることを強いられる。そのように語ること、考えることのみを強いられる。
そのような事態が、具体的な「支援」なり「研究」なり「表現」や「報道」なり、その他の場において起こりうる、そういうことがあると思う。
そして、この不自由な構造が、打破されるべきなのだろう。


上の引用のなかで、「無理にでも語らせるべきなのはむしろ強者ではないか」とあるのは、まったくそうだと思う。
そして実際には、人は「当事者として語る」ことを忌避することによって、また公然と忌避できることによって強者なのだから、強いられるように「当事者として」語りはじめたときには、その瞬間だけは、その人はもはや強者に属さないといえるのかもしれない。
図式的に言ってしまえば、弱者と呼ばれる本人には「非当事者としても語る自由」があり、強者と呼ばれる側の人には「当事者として語る」べき義務がある、と言えるのではないか。


そして、では、それでも「当事者自身が語る」、ということの位置づけはどうなるのか。その事柄の「当事者」と呼ばれるような人が、それでも「自分で語ってみる」ということは、どう位置づけられるのか。
それはもちろん重要なことなのである。
しかしそれは、ueyamakzkさんがまさに「自分で語ってみる」と表現されている言葉のとおりの、本人自身にとっての機能的な重要さであり、それだからこそそれは重要だ、と考えられるべきなのだと思う。

「自分の現実について、自分の言葉で語る努力をしてみる」という作業の意義は、大きく次の二つだと思う。


(a) 力関係を分析するための素材提供。
弱者が語ったとしても、いきなり主張が受け入れられるわけではない。
(b) 生きづらくなっている「自分の現実」の、語り手本人による再構築。
語ってみて初めて「自分の考えていたこと」を理解できることもある。
(b)は、過剰流動性ほかさまざまの事情で混乱した自己統御に、とっかかりを作ること。交渉や契約という、もっとも基本的な行為に必要な能力が弱くなっている。社会的行為を営むのに必要な政治的能力が失われている(主体化の困難)。その能力を賦活するために必要な契機としての「当事者発言」。その「当事者発言」は、強者や弱者に関係なくお互いに対等な権利を持つ。またその当事者発言は、あくまで分析や検証の素材であって、無条件に肯定されるべきものではない。


つまり、その人自身が、「当事者」であることのゆえに被っている基本的な社会的能力を持つことの困難を脱するためにこそ、「当事者発言」は必要である。
そしてそう考えるなら、ここでの関係性は「対等」なものとして設定される以外にない。ここでの発言に、当事者ゆえの特権性が負荷されてしまうようであれば、それはこの人が社会的な理由から損なわれた「基本的な社会的能力」を取り戻そう(身につけよう)とする営みを妨害することになってしまうのである。

「当事者」というのは、最初から「関係」において成り立つものであり、当事者性を分析するためには、最初から制度分析を伴う必要がある。


「当事者」という概念を、強いられた「特権性」の負荷から救い出して、本人が十分な社会的能力をもって生きていくことにつながるような関係構築の実践の場のなかに取り戻す、あるいは位置づけなおす。
そういう試みが、ここで書かれていることだと思う。

むしろ強い立場にある人間こそが、制度分析と自己分析(当事者的な自己分析)を行なう必要がある。


「自分の当事者性」を、「強者」と呼べるような位置にいくらかは身を置く人のすべてが語ろうと努めること、わが身を振り返ってそれはとても困難なことだが、そのことこそが大事であるというメッセージを、このエントリーから受取ったように感じた。
それはもちろん、「弱者のようにふるまう」ことではない。