『資本論』読書メモ・子どもの権利とラディカリズム

資本論』が書かれた19世紀中頃のイギリスでは、さまざまな労働法制が(数十年にわたる闘争と論議の末に)成立していったわけだが、そのなかでも、工場などにおける子ども(早い場合、6歳頃から)の長時間労働を法律で禁止するかどうかが、大きな問題となっていた。というのも、当時、ほとんどの資本家(工場経営者)は、子どもの労働なしでは経営は成り立たないと考えていたからである。
長い議論の末に、ようやく議会において人々が一致した見解は、とにかく、貧困(それはもちろん、資本主義がもたらしたのだが)の故に子どもたちを工場などの労働力として売り渡してしまう親たちの横暴から、子どもの権利を守らねばならない、という点だった。つまり、資本による搾取からではなく(これでは、資本家側は納得しまい)、親権の暴力から子どもを守るべき、ということで議論が一致し、子どもの長時間労働を禁じる法の制定にこぎつけたというわけだ。
このことについて、マルクスはこう書いている。

しかし、親権の濫用が、資本による未成熟労働力の直接または間接の搾取をつくり出したのではなく、逆に、資本主義的搾取様式が、親権に適応する経済的基礎を廃棄することによって、その濫用に至らしめたのである。資本主義制度の内部における古い家族制度の解体が、いかに怖ろしく厭わしいものに見えようとも、それにもかかわらず、大工業は、家事の領域の彼方にある社会的に組織された生産過程において、婦人、男女の若い者と児童に決定的な役割を割り当てることによって、家族と両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基盤を創出する。(『資本論』第一巻第13章 岩波文庫版(二)p511 向坂逸郎訳)

この文章は、前段では一見すると、資本主義の暴力こそが問題の本質だと言っているように読め、『資本主義制度の内部に・・』に始まる、後段とのつながりが分かりにくい。
 だが、もちろん、マルクスの思想の特質は後段の方に示されている。
つまり、資本主義による『親権に適応する(旧来の)経済的基礎』の破壊を、マルクスは悪いこととは考えていないのだ。それは、この破壊が、親の子に対する、強者の弱者に対する、搾取と支配の構造(それは、資本主義以前からあるものだろう)をあかるみに出し、解体する力を持つものだからだ。家族制度は、たしかに時には、この構造から弱者を守るために機能することもあるが、人類史の中では、むしろその逆の働き方をすることの方が一般的だったのではないか(「母よ、殺すな!」という、「青い芝の会」の横塚晃の叫びが想起される)?
資本主義は、その一般的構造をむしろ代表し、拡張するものであり、それがもたらす矛盾(闘争)の激化が、結果的に、あるべき未来を開く。つまり、『古い家族制度の解体』が、真に解放された、平等な社会の実現を可能にするというわけだ。
マルクスは、たんに資本主義の悪だけを問題にしたわけではない。強者が弱者を支配する構造は、資本主義よりも古くから、あるいはより根底に存在するものであり、資本主義(特に産業資本主義)は、その構造の暴力性を急速に拡大する半面、その解体をもたらす力でもある、という考え。
ここに、マルクス主義の(悪い意味で)進歩主義的な側面、少なくとも資本主義の発展に対する両義的な態度も出てくる。
とはいえ、資本主義という現象を越えて、より根底的な構造の解体を目指そうとする、この傾向自体は、マルクスの思想の最大の魅力ではないかと思う(それは、ルソーにも通じている)。その意味では、中国の文化大革命は、決してマルクスの本道からの逸脱ではなく、その本筋をそれなりに突き詰めたものだったのだと思う。
どれほど大きな災厄をそれがもたらしたからといって、「あれはマルクスの思想の本質とは無縁」などと言ったのでは、彼の思想の核心の部分を受け継ぐことは出来ないと思うのだ。


しかし、では、その末に、未来においてもたらされるとマルクスが考えた『家族と両性関係とのより高度な形態』なるものが、果たして、この搾取と支配の構造を脱しているものなのか。
それらは実際には、真のラディカリズムとは真逆の、強者による弱者の、別様の支配や利用のあり方にすぎなかったのではないか。それが、マルクスの思想に対して批判のなされるところであり、共産主義等々の名を付されたすべての(ラディカルとみなされた)コミューン主義的な思想や運動の実態でもあっただろう。
だが、だからといって、マルクスによるラディカルな告発をなかったことにして、資本主義をはじめとする諸力が支配する暴力的な世界の現実をひたすら追認していくことなど、われわれに許されているはずもない。
搾取と支配の構造からの解放は、「あるべき未来」においてではなく、資本主義の過酷な現実との闘争のさなかでこそ、私たちの中で追求され、少しずつ実現されるべきものなのだろう。