フーコー・泥沼にはまる

ちくま書房のフーコー関係の本は、「思考集成」シリーズの方は高くてとても手が出ないけど、こういうコンパクトで安価なシリーズも出版してくれるところが、み○ず書房などとは大きく違うところである。


前にも書いたように、「汚辱に塗れた人々の生」という文章を読みたくてこの本を買った。
そのエッセイのような文章はたしかに独特な魅力にあふれるもので、それについてはまた機会があれば書くことにしたいが、他の文章も予想外に読みやすくて興味深く、意に反して泥沼にはまりそうだ。
とくに、「医療」の歴史に関する二つの文章が、ちょうど関心のあることなので、ひきこまれて読んでしまう。


社会医学の誕生」という題の講演録では、18世紀以後に起こった大規模な「医療化」の動き、つまり人間の存在や身体を「医療化」とよべる大きな網目のなかにすっかり組み込んでしまおうとするプロセスのはじまりを、ドイツの「国家医学」、フランスの「都市医学」、イギリスの「労働力の医学」という三段階にわけて記述・分析している(ここでフーコーが強調しているのは、こうした医学的な権力というものが、当初から労働力としての人間の身体を対象にしていたわけではなかった、という点である。)。
これら三つの分析はいずれもたいへん興味深い。
「都市医学」の分析のなかでは、フーコーがその特徴のひとつを「隔離政策」というものに見出したうえで、それをハンセン病の患者に対して行われたような「排除の医学(メカニズム)」と呼べるものと、ペストの流行に対処するために用いられた「監視と管理のメカニズム」と呼べるものに分けているという点。
フーコーが重視しているのは、一見すると後者の流れの方であるように思える。実際、「都市医学」についての記述は、「環境をいかに管理するか」という行政的な考え方の発展の歴史を追っている。だが、この両者の関係をどう考えるべきかは、よく分からない。


そして、もっと興味深いのは、「労働力の医学」について述べられていることである。
フーコーは、18世紀には、貧困の問題は脅威や危険といった観点から語られることはなかった、と言っている。
たとえば18世紀には、貧しい人々は、都市活動に必要な社会的な機能の一部とみなされていたため、衛生上の脅威の対象、つまり「医療化」によって管理せねばならない対象と考えられることはなかった。
だが、19世紀に入って、まず貧しい階層の人たちが「生存のための反乱」を起こして支配階級に対立するようになったり、郵便制度や交通運輸システムの改革のために貧しい人々がそれまで得ていた職を失ってしまったことにこの人たちが抗議したこと、またそうした政治的な状況にコレラの蔓延による貧しい人々に対する恐怖心も加わり、やがて都市空間は、「豊かな地区」と「貧しい地区」に分けられるようになった、という。
つまり、(豊かな人たちが抱く)脅威や危険という感情とともに、「貧しい人々」という集団が、管理すべき対象としてくくりだされるようになった。
フーコーは、そのような貧窮者たちの医学的管理にとって重要な役目を果たしたのが、イギリスの「貧民救済法」であるという。
それは、税金によって貧しい人々に最低限の生存を保障すると同時に、その人たちの管理の継続を保障し、それによって(医学的にも)富裕な人たち、特権的な人たちの健康と安全を守ろうとする制度であった。
これは、わりあい有名なフーコーの見解で、「生=政治」というものへの批判にもつながるものだと思うけど、ここでは非常にラディカルな感じで、「貧民救済法」的な仕組みへの批判が語られているのが、なんというか新鮮な感じだ。

こうして都市のなかで、豊かな人々と貧しい人々のあいだに、いわば権威主義的な検疫警戒線が設けられたのです。(p195)


フーコーはこうした制度を、そして近代の医療制度のはじまりを、富裕階級の安全を守ることを目的とした貧困階級の「健康」と身体の管理ということのうちに見出すわけである。
フーコーの思想のこうした側面については、以前に何度か書いた酒井隆史著『自由論』で詳しく語られていたと思う。


いっぽう、「18世紀における健康政策」という論文には、こうした事柄を大枠で理解するために非常に興味深い考えが提示されている。
フーコーは、17世紀末までのヨーロッパでは、医学は、「貧者の救済(救助)」という大きな行為の一部をなすものでしかなかった、という。
そこでは、「貧しい人々」という漠然とした大きな集団を、慈善募金を財源として救済するということが社会的なサービスとして行われ、医学はそのなかで、健康を損なっている人たちを助ける「構成要素のひとつ」にすぎなかった。
近代医学は、この大きなサービス(救助)の枠組みが崩れて、「医療」という専門的で権威的でもある体制が出現することによって確立されるわけだが、フーコーは、いわゆる自由主義的な思想の隆盛によって、この前近代的な「貧者の救済」のシステムが批判にさらされることになった結果を、たいへん興味深く描いている。
とても長い引用になって恐縮だが、すごく面白いところなので書き写してみる。

この異種共存的かつ、多目的であった救済の手続きは18世紀を通して厳しく批判される。その解体は、投資の方法が全般にわたって再検討に付されたことから要請される。つまり、「基金」は実際、多額の金を固定資産としているが、その収入は失業者に仕事を与えるのではなく、何もしないでいたい人間を養うのに役立つだけである。慈善は経済的合理性をまったく考慮することなく、恣意的にお金を分配する。救助は、道徳的義務、つまり最も富んだ者の最も貧しい者に対する包括的な義務の結果であってはならず、念入りな計算の対象とならねばならない。そのことは、住民がいっそう密に配置されたこと、そして、これまで雑然と慈善が行われていた、カテゴリーの異なる不幸な人々のなかに区別を設けようとしたことも前提としている。伝統的な身分規定がゆっくりと緩んでいく中で、「貧者」は最初に消滅し、一連の機能的な区分(善い貧者と悪い貧者、意図的な無為の人と望まざる失業者、なにがしかの仕事ができる者とできない者)に取って代わるものの一つであった。無為、そしてその条件の結果と分析が、少々包括的であった「貧者」の神聖視に取って代わろうとする。こうした分析が実践において目標としてかかげるのは、最良の場合、貧困を生産機構に張り付けることで最大限役に立つようにすること、最悪でも、できる限りそれが社会の残りの部分に対してかける負担を軽減することである。どのようにして「五体満足な」貧者を仕事に就かせるか、いかに彼らを役に立つ労働力に変えるか。しかしまた、いかにして最も貧しい者が、病気の時、あるいは一時的、恒久的に働けないときにでも自分で食べていけるよう保証するか。またさらには、捨て子や孤児の教育につぎ込んだ出費を長期的、あるいは短期的にいかに採算のとれるものにするか。このように貧困が功利的観点から分解されていく中で、労働という至上命令、生産の必要性との関係で、病の特異的な問題も現れてきた。(p283〜284)(太字強調は引用者)


この論文の後半では、こうした変化にともなって、「病院」のあり方も、従来の「救済の場」として位置づけられるものから、一度「病院」の存在そのものへの疑問視(コスト面などの理由からの、「自宅療養」やそれを補強する地域の医療体制の整備・制度化の動き)を経て、「治療作業の場」へとその性格を変えていったという経緯が語られており、現在の状況を考えるうえで、それもたいへん興味深い。