当事者の語りや、問題のつながりについてなど

あまりものが考えられないので、思い浮かんだことを断片としてメモ。


① 「当事者の語り」が問題にされるときに、それが反論が許されない特権的なものであるとみなされ、聞いている非当事者の側が圧迫を感じるというようなことが言われる。
これは、日本でもあらゆる社会運動の現場で、戦後ずっと言われてきたことだと思うが、どうもあまり腑に落ちない。
ぼくは、「当事者の語り」ということの最大の問題点は、語る本人が「当事者として」しか語れなくなってしまうことではないかと思う。
ややこしい言い方だが、当事者(本人)には、非当事者的にも語る権利があり、自由がある。それを尊重し、確保するにはどうするか、そういう方向で考えていくべきだ。


② 色々な社会問題は、みなつながっている、という言い方がある。
たとえば野宿者の排除ということと、不法移民の問題と、先進国の若者の労働条件の問題と、アメリカではエスニック・マイノリティーが軍隊に志願するということと、先住民の権利の問題と、植民地支配に対する補償ということと、それらはすべて「つながっている」というようなこと。
たしかにそう言えると思うが、そのことに積極的な意味があると言うべきかどうか分からない。
こうした「つながり」を認識することによって、それぞれの立場に居る者同士が対立・反目させられるという、「分断統治」的なことは避けやすくなるかもしれない。
そういう意味はあるだろうが、ただ「すべてつながっている」といって終わらせることは、それぞれの人が置かれた状況の間の差異を見えなくしてしまうことになる。
たぶん、その弊害は、とても大きい。
小さい環がつながって無限に伸びている鎖があっても、一人の人間が重みをもって関われる環の数は、ごく限られているものだ。
「大きなひとつながりの問題」があるのではなく、無数の固有の問題の雑多な集積がある。どの問題も「特権的」な位置にあるわけではないことを前提としたうえで、それら諸問題の間の差異を強調していくことは、とても大切であると思う。


③ 上に書いたことに関連するが、マイノリティーの権利回復のための行動は、マジョリティー一般の権利を回復する闘争のための「道具」になってはいけない。
「すべてつながっている」という言い方がはらむ危険性は、たぶんそこに関わっている。
差異を消すことは、抵抗運動の内部での権力関係の維持・強化をもたらすのだ。
ときどき思うが、たとえば、沖縄に米軍基地がなかったら、日本の平和運動をしている人たちは、これほど沖縄に関心をもっただろうか。
基地(問題)の存在から切り離して、(たとえば)沖縄とそこに縁をもつ人々の存在を思うということ。そこを出発点にしないと(自戒)。