生野区で朝鮮学校の子どもが

メルマガ『PUBLICITY』などを通じて知ったが、大阪の生野区や愛知県で、それぞれ6歳と14歳になる朝鮮学校に通う子どもが登校時に暴力を受けるという事件が相次いだ。

http://www.asahi.com/national/update/0706/OSK200607060134.html

http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/060708_3.htm


どちらも犯人はまだ捕まっていないようだが、今回のミサイル発射に関する報道に影響されたものと考えていいだろう。心配されたことが早くも起きてしまった、という感じだ。
どんな理由があっても、みも知らない小さな子どもに行きずりに暴力を振るうということは、もちろん許されないことだ。即断はできないが、こうした行為に走る人間は、日頃の鬱積や衝動をぶつけられるなら、理由も相手もなんでもいいのだろう。
だからここで、「ミサイル発射と子どもたちは関係ないではないか」とまっとうな非難をしても、そんなに意味がないかもしれない。
そして、こういうことをする人自身が、社会のなかで不満をぶつける正当な手段を持たない弱者であるということは、おうおうにしてあることである。


問題は、その衝動的な暴力のはけ口として、「朝鮮学校の生徒」や「朝鮮人」を選んでも容認されるかのような雰囲気が、マスコミの報道などを通じて社会のなかに作り出されていくことだ。
一面的で扇動的な報道の洪水は、人々を少数者に対する有形無形の暴力へと駆り立てる。
小さな者、数の少ない者、立場の弱い者への攻撃をそそのかし、容認する雰囲気が、社会のなかに次第に強固に作り上げられていくことがおそろしい。


もともと、朝鮮の人たちに対するレイシズム的な攻撃というのは、この国の社会においては何度も反復されてきた。
いま起こっている政治的な事態が、その潜在的な傾向の噴出を助長し、それを正当化する方便として使われてはならない。
また、政治や経済やマスコミによって、そうした攻撃性が巧妙というよりも露骨に増幅され、弱者が弱者のみを攻撃する、強者に都合のいい社会の仕組みが作られていくことを、何より警戒すべきだろう。


誰が容認し、そそのかし、あるいは強制しようと、自分は社会のなかで弱い立場の人(「隣人」)に対して暴力や圧迫を差し向けないことを、一人一人が心に決め実行していく必要があると思う。
残念ながら、今の社会は、国際的にも国内的にも、そういう仕組みになっていないようだが、だからこそ一人一人が、そのルールを自分に課して実行していくことがほんとうに大事なのだと思う。


ともかく、今のこの社会では、ぼくは在日朝鮮人の側に立つ。
他に選択肢があるだろうか?