『記号と事件』

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

この本はインタビューが大半ということで、じつはそんなに期待せずに読みはじめたんだけど、滅法面白い。これは翻訳のうまさということもあるんだろうけど、ドゥルーズの語り口にこめられた「情動」みたいなものが、難解な言葉を使っているとはいえ、そのことを越えて生き生きと伝わってきて魅了される。


このなかでよく知られているのは、先日も少し触れたネグリによる「政治」に関するインタビュー(レーヴィへの言及を含む)だろうが、ぼくは、インタビューの時点で既に亡くなっていたフーコーについて語っている三つのインタビューを収めた章が、とりわけ素晴らしいものだと思った。
そのなかでドゥルーズは、晩年のフーコーが「主体化」をテーマとしたことについて、世間で流布した「フーコーは結局「主体」を重視する立場に回帰したのだと」という物言いに反駁して、「主体化」と「主体」とはまったく異なるもの、むしろ相反するものであるということを強調している。

いったん主体を否定しておきながら、フーコーは隠された主体を発見したとか、再導入したのだとか述べるのはあまりにも馬鹿げている。主体などありはせず、主体性の生産が存在するにすぎないわけですからね。主体性とは、機が熟したとき、まさに主体がないからこそ生産しなければならないものなのです。(p230)


そして、こうした「プロセスとしての主体化」を「個体化」の様態の一種と定義したうえで、個体化には「主体」タイプの個体化もあれば、「事件」タイプの個体化もあると語り、フーコーが重視したであろうもの、そしてドゥルーズ自身が重視するものとして、後者のタイプを強調するのである。
つまり、「主体化」と名前はついているけれども、フーコーが目指したものは自分と同様、「主体」とはじつは無縁のものであったと、ドゥルーズは言おうとするわけである。
フーコー本人が「主体化」と言ってるのに、これはちょっと我田引水じゃないかなあ、という気もするけど。

そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、<事件>タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。(p232)


これは、『千のプラトー』では「此性(haecceitas)」という語で呼ばれていた特異な概念だ。それを読んだときは、すごく魅力的な概念だけど、どこか東洋的であり、自分が東洋人であるだけに簡単に分かってしまっていいんだろうか、というように思ったものだが、ここでドゥルーズの言っていることを読んで、この概念が持つ具体的な意味、というかそれが考え出された現実的な事情(文脈)のようなものが少しわかる気がした。
それは後で書くとして、これにつづく、フーコーその人の印象についての叙述は、とりわけ鮮烈なものだ。「主体なき個体化」という、この概念のイメージを、ドゥルーズは物故した親しい友人*1、思想家の姿を描くことで直接に説明しようとしているからだ。

フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。そんなふうであるとか、そんなふうに見られるということがフーコーを苛立たせたこともあります。しかし、フーコーの全作品がそうした強度の束によって培われていたというのも、やはり否定しようのない事実なのです。(p233〜234)


これは、今でもフーコーの生前の画像を見られる機会があると思うのだが、それを見ると非常によく分かる表現である。
これらのインタビューで語られるフーコーについての印象や想い出は、どれも生々しく、衝撃さえおぼえる。フーコーの人と思想を語るドゥルーズの言葉を読んでいると、まったくジャンルは違うが、エリック・ドルフィーの最後のアルバム『ラスト・デイト』のことを思い出す。

ラスト・デイト

ラスト・デイト


さて、ここでドゥルーズが「主体でなく主体化」と言っていることの含意は、どういうものだろう。ぼくなりに気のついたことを書いてみる。
哲学について語られた別のインタビューのなかで、ドゥルーズは「嘆き」という情動が「主体化」の形成にすぐれた役割を果たすと語っている。

嘆きは詩的な重要性をもつだけでなく、歴史的にも、社会的にもきわめて重要であるわけですが、それは嘆きそのものが主体化の動きを表現しているからにほかなりません(「俺は哀れな人間だ」という嘆きも当然ひとつの主体化です)。しかも哀歌的主体性には幅がある。主体化をうながす要因として嘆きは高揚感と同じくらい重要なのです。フーコーはいま現在、私たちの社会でその輪郭をととのえはじめた主体化の動きに魅了され、現にいま主体化を産み出しつつある現代的プロセスはどのようなものか見極めようとしていました。(p307)


また他のインタビューでは、それぞれの人が「自分のために語る」という行為が、闘争のためには不可欠なプロセスであることが強調されている(p179)。
ドゥルーズは、「主体」や「一人称」ということを批判し、その拘束から逃れようとした人だが、人々がさまざまな力に包囲された現実のなかで他人とつながって生き抜いていくためには、「主体」以前の「情動」のレベルで、「自分」と「他人」とが直接結びつくような場を打ち立てるプロセスが不可欠であると考えていた。「嘆き」や「高揚感」という情動をとおして、両義的ではあっても、打ち立てられるそのような生のあり方(プロセス)の可能性、それが「主体なき個体化」ということ、また「此性」という不思議な概念にこめられた意味だったのではないか。


書きながらもやもやして、自分でもよく分からないのだが、「映画」について語られたインタビューのなかから、そのことに関係があるかもしれない部分を抜粋して終わろう。
それは、イタリアのネオ・レアリズモに例をとって、第二次大戦後に、世界の変化に引き起こされるようにして生じた映画の表現の大きな変貌を語った、たいへん明晰な言葉である。

(前略)、さて、今度はひとりの人物が、日常的であれ、異常なものであれ、とにかくあらゆる行動を超えてしまう、あるいはその人物としては反応しようがない、そんな状況に置かれたと仮定してみましょう。どうにもならない、あるいは苦しすぎる、美しすぎる・・・・。このような状況では感覚と運動のつながりが断ち切られてしまいます。そのとき人物は感覚運動的状況をはなれ、純粋に光学的かつ音声的な状況に置かれる。こうして従来とは違う映像のタイプが生まれるのです。(中略)ここに、ネオ・レアリズモの創意を見ることができると思う。つまり状況に作用をおよぼしたり、状況に反応したりする可能性をあまり信じていない、しかしけっして受け身の姿勢をとることなく、なんの変哲もない日常からも許しがたいこと、耐えがたいことを読みとったり、それをあばいたりする積極性。ネオ・レアリズモは「見者」の映画なのです。(中略)この場合もまた、わざわざ説明するまでもなく、光学的かつ音声的な新時代の映像は、戦後になってはじめて実現した外的状況と関係しているのであり、その状況というのが、たとえば解体の途上にある、あるいは用途を失った空間であり、行動にとってかわるさまざまな「さすらい」の形態であり、いたるところで目にする耐えがたいものの増長であるわけです。(p108〜110)

*1:『哲学者は賢人ではなく、「友人」である』(p330)と、ドゥルーズは述べている。