『生政治の誕生』(読み始め)


そういうわけで(承前)、近所の図書館でフーコーの『生政治の誕生』を借りてきて、少しずつ読んでいる。


こういう題が付いているが、内容は「生政治」のことではなく、「自由主義」および「新自由主義」とフーコーが呼んでいるものの分析。「自由主義」を論じた初めの方は、話がややつかみにくいのだが、現在の状況に通じる「新自由主義」のくだりになると、非常に明快になる。
この本は、講義録を他人が編集したものなので(このタイプの本は、戦前の日本でも、主流と言っていいほど多かったようだ)、難解なレトリックが少なく、非常にとっつきやすい文章になっているのが、僕のような素人にはありがたい。そして、フーコーというのは、こういう講義のようなスタイルがすごく合っている人だったんだろうな、とも思う。
さて、フーコーによれば、ヨーロッパにおいて18世紀の中ごろに、政治・社会のあり方に、大きな変化の兆しが生じることになる。それは、端的にいえば、それまでは国家の権力を制限するのに「神」であるとか「自然法」といった、国家の外部の権威のようなものを持ってきて、それを根拠にして制限しようとする。こういう考え方が支配していた。
それが、18世紀の中ごろから、国家権力自身が内在的に自分自身を制限するということ、そうすることによって、より有効な統治を行うのだという考え方が生じてきて、それが段々と支配的なものになっていく。つまり、国家権力が自分自身を制限し、国家が介入しない「自由」の領域をあえて作り出すことによって、より十全な、効率的な統治を実現していこうという考え方である。
フーコーは、この新しい考え方、政治の発想とやり方を「自由主義」と呼んでいるわけだ。それは、権力者がそういう発想になると同時に、国民・市民各自によって形成される社会そのものが、そういう思想によって動いていくのだといえよう。

忘れてならないのは、この新たな統治術、できる限り少なく統治するためのこの統治術、最大と最小とのあいだで、それも最大の側よりむしろ最小の側で統治するためのこの統治術が、実際には、国家理性を二重化し、それをいわば内的に洗練するものであるということであり、そうした統治術が、国家理性を維持したり、それをより完全に発展させたり、それを改良したりするための原理であるということです。(p36)

自由主義」の特徴として、フーコーは、三つのことをあげている。まず、それは「市場」という領域を特権的な「自然」として捉え、その自然的なメカニズムを分析し把握することを統治の原理にするということ(フーコーは、この時代の自由主義は、この意味で自然主義と呼んでもよい、と言っている)。次に、そこでは「有用」であるかどうかということだけが、統治の可否を判定する基準になるということ。最後に、この「自由主義」の時代において、グローバルな世界市場が、ヨーロッパに無制限的に富をもたらすための対象として初めて立ち現われたということだ。

私は、三つの特徴を示そうと試みました。市場の真理陳述、統治の有用性を計算することによる制限。そして今示したのが、世界市場との関係における無制限の経済的発展を伴う地域としてのヨーロッパの位置づけ。こうしたものを、私は自由主義と呼んだのでした。(p74)

ところで、このあたりでフーコーは興味深いことを書いている。
それは、この「自由主義」の時代においては、自由というものについて二つの考え方が混在しているということである。一方をルソー的な自由、もう一方をアダム・スミス的な自由とでも呼べばいいだろうか?

したがって、人権から出発して構想された自由と、被統治者の独立から出発して知覚された自由という、自由に関する絶対的な異質な二つの考え方があるということです。人権のシステムと、被統治者の独立のシステム。私はこれらが混じり合うことのない二つのシステムであると言っているのではありません。そうではなくて、それらは、歴史的に異なる起源を持ち、本質的であると思われる異質性、不調和を備えた二つのシステムであるということです。人権と呼ばれるものに関する現在的問題に関して言うなら、人権がどこで、どのような国で、どのようにして、どのような形式のもとで主張されているかということを見てみるだけで、問題が実際に人権の法的問題にかかわるものであるのか、それとも統治性に対する被統治者の独立の表明ないし要求という別の問題にかかわるものであるのかを見分けることができるでしょう。(p52)

このあたりは、1970年代後半の(東西)ヨーロッパの政治状況との関わりにおいて、フーコーが考えていることがよく分かると思う。
話を戻して、フーコーが「自由主義」について言っていることを、もう少し引いておこう。

したがって新たな統治理性は自由を必要とし、新たな統治術は自由を消費するのです。自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないということでもあります。自由を生産し、組織化しなければならないということ。(p78)

したがって、自由主義体制における自由は一つの所与ではありません。自由は、既成の区域として尊重しなければならないようなものではありません。(中略)自由、それは、絶えず製造されるような何かです。自由主義、それは、自由を受けいれるものではありません。自由主義、それは、絶えず自由を製造しようとするもの、自由を生み出し生産しようとするものなのです。(p79〜80)

また、自由主義体制においては、危険・安全というものが、自らを活性化していくために必要不可欠であるとも、フーコーは述べている。

自由と安全、これこそ、自由主義に固有の権力の経済と呼べるようなものに関する諸問題を、いわば内部から活性化するものなのです。(p80)


長くなったので、今日はこのへんまで。