『差異と反復』読書メモ・7

下に続いて、『差異と反復』を読み直しながらのメモ。
これはちょっと長いです。

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

斬新について・その1

『差異と反復』のとくに第4章から、前に書いた「漸進性」ということにこだわってみる。
漸進という語を辞書で見ると、「急進」の反対語で、「少しずつ進むこと」とある。「少しずつ」という表現も本書にはよく出てくるので、たぶん原語は同じ(同種の)フランス語の表現であろうと思う。
とくに第4章では、ほんとに「漸進」という語が頻出するのだが、ここでは二箇所を見てみる。


まず下巻のp66から68にかけてのあたり。
ここでは、「理念」(問題)が現実の世界(たとえば歴史的現実)に具現・展開されるとき、それは「漸進的規定」と、「突然の、荒々しい、革命的な」出来事の炸裂という、二つの相を持つということが書かれている。
ドゥルーズはそれを、「愛」と「怒り」という二つの語によって示す。

どの《理念(イデア)》も、言わば愛と怒りの二つの顔をもつ。〔出来事の〕破片の探索、〔問題の諸条件の〕漸進的な規定、〈添加〉されるべきイデア的な〈体〉の連鎖、そこに愛があり、イデア的な出来事によって「革命的状況」の集中を決定し、現実的なもののなかに《理念(イデア)》を炸裂させる、もろもろの特異性の凝縮、そこに怒りがあるのだ。(下巻p66)


ここではレーニンのことが引き合いに出されているが、この本が出版された68年という時期のことを考えても、こうした記述に具体的な政治状況への参照が含まれていたことは確かだと思う。
しかし、それ以上のことは分からない。
ただ、「出来事」という場合に、必ずしも「怒り」の面だけを考えないところに、後年のドゥルーズの思想につながっていくものがあるような気もする。

問題的な存在

ところで、この部分の直後に、シェリングのことを例に引いて、「非‐存在」(メー・オン)という言葉についての、印象的な記述がある。
以下、本文からギリシャ文字の表記を除いて引用する。

怒りと愛は、メー・オン〔非‐存在〕から出発して展開される、《理念(イデア)》の力=累乗(ピュイサンス)である。メー・オンから出発してとは、否定的なもの、つまり否‐存在(ウーク・オン)から出発してという意味ではなく、問題的な存在、つまり非‐現実存在者から、言い換えれば、根拠の彼岸における諸現実存在の暗黙の存在から出発してという意味である。(p67)


「理念」の現実化の運動(過程)の出発点となるような、「問題的な存在」(ドゥルーズは、後にそれをさらに「問題提起的」と明確化する)、「否‐存在」ではない「非‐現実存在者」とは、政治的な場においてはどのような人のことを指すのだろう。
この箇所でも、やはりプラトンが引き合いに出されているのだが、以前にも書いたように、それは古代ギリシャから68年のヨーロッパにつながっているような公共性・政治の空間にとっての、つまり本質的にコロニアルで他者排除的でもある民主制の場にとっての「外部」、とくに具体的にはフーコーが関心を寄せていたような人たちの存在が思い浮かべられていたのではないかと、ぼくには思える。

漸進について・その2

「漸進」ということについて考えてみたい、もうひとつの箇所。
それは、やはり下巻のp116から120ぐらいにかけてのところである。
ここでは、潜在的なものである「構造」が現実化する過程について語られている。
まず、ドゥルーズにとって、構造と発生とは対立する概念ではない。理念の潜在的な状態が構造と呼ばれるのであり、その構造(理念)が現実化していく過程が「発生」と呼ばれるのである。
ちょっと引いてみよう。

他方において、充足理由の本質的なアスペクト、すなわち、規定可能性、相互規定、十分な規定作用、の体系的な統一は、漸進的規定である。事実、規定作用の相互性は、退行も足踏みも意味せず、かえって真の漸進を意味するのであり、この漸進において、相互的な関係にある諸項は、少しずつ獲得されてゆかなければならず、もろもろの関係=比は、それら自体さらに関係し合わなければならないのである。(p116)


たいへん難しい文章だが、ともかく現実化における「漸進」ということが強調されている。
そして、次のように書かれる。

(前略)まさにそうした意味において、あらゆる構造は、そのような漸進性のゆえに、純粋に論理的で、理念的あるいは弁証法的な時間を所有しているのである。しかし、そのような潜在的な時間は、それ自体、異化=分化の時間を、あるいはむしろ、現実化の様々なリズムや時間を規定している。(p117)


現実化の運動が漸進的であるのは、構造そのものが論理的で理念的・弁証法的な時間を所有していることに由来する、ということだろう。
「構造」(多様体)という理念のあり方が、現実化の漸進性を要求し産み出すのである。


ドゥルーズは、ここで「潜在的なもの」と「可能的なもの」との違いに注意をうながす。
可能的なものとは異なり、潜在的なものは、それ自体ですでに実在的である。
潜在的なもの(構造、理念)は、実在化するわけではなく、現実化するのである。
このドゥルーズの強調は、何を意味するだろうか?
それは、理念の現実化という過程(運動)が、わたしたちの生において、また生によってなされる事柄だ、という一事であると思う。


「可能的」から「実在的」へという形で現実存在を考えるとき、わたしたちは現実存在を『わたしたちとは無関係になされる跳躍として考えざるをえない』(p118)とドゥルーズは言う。
だが、理念の現実化という相のもとにとらえられた現実存在とは、わたしたちがとくに無意識的な生のレベルにおいて、その力を感受し、その力のもとで諸能力を限界まで行使して生きるような、生の深い力の産物であるといえる。
わたしたちは、自分の内奥において感受しうるその深い力に突き動かれて、その力の命じるままに、それら現実存在の産出に、すなわち理念の現実化の運動に身を投じるのである。

現実存在が生産されるのは、しかも《理念(イデア)》に内在する時間と空間に即して生産されるのは、まさに潜在的なものの実在性から出発してのことなのである。(p119)


ここで、理念の現実化の過程としての生は、まさに「創造」なのだが、その創造への飛躍は私の受動性においてなされるということ、私は、突き動かされ、命じられる限りにおいてのみ、世界に対する生産と働きかけの主体たりうるのだということが、示されていると思う。
運動(現実化)の主体は、私の根底にあるような無意識的な生であり、つまりは差異の自己運動として見出された生の力といったものであり、私はこの生の力に対しては、どこか他者の位置にある。
しかし重要なのは、この深い生の力のほうであり、その「他なる」力を感受(受動)することによってのみ、わたしたちは自己の生をはじめて真に現実的なものに、現実を産出する力を有するものにすることが出来るのだと、ドゥルーズは語るのである。


おそらく、ここに「理念の現実化」の過程が「漸進的」であることの意味もあるのだろう。