『権力への意志』

今年はニーチェを重点的に読むということを決めていて、つい最近も、ちくま学芸文庫の『権力への意志』を、えっちらおっちら読んでいた。
簡単に感想を書いておこう。


実は、その直前にマキアヴェリの『君主論』(中公クラシックス)を、これも初めて読んだ。その後でニーチェを読むと、彼がマキアヴェリからいかに多大な影響を受けたかということが、よく分かった。ニーチェの思想のなかで最も鮮烈な部分は、すべてマキアヴェリの影響であり、しかもマキアヴェリの力強さには達していないのではないか、そう思えるほどだ。


とは言っても、ニーチェの思想には大きな魅力がある。それはもちろん、ヨーロッパを支配するキリスト教道徳への挑戦であり、それを根幹として、「真理への信仰」や、自由主義、民主主義などの欺瞞性を告発し、解体していったことである。つまりは、それらが結局、「権力への意志」に根ざしているのだということを暴露した。
ちょうど、プラトンの『国家』の初めの方に出てくる、あのトラシュマコスのように、ニーチェはこの世の全てが、とりわけ道徳とか善とか、あるいはまた「知」とかいったものが、実際には権力の論理に基づいていることを暴露して、その事実を隠ぺいすることによって人々の生を制度の中に閉じ込めようとする、支配的権力(教会や国家や市民社会)の欺瞞を告発した。
その支配の下では、苦渋に満ちた個々の生存(いわゆる実存)は、その現実性を否定される。ありもしない「あの世の生」「理想の生」のようなものこそ、真に価値のあるもの、真実の生であるとされ、それが範型とされることによって、私のこの現実の生の価値は貶められる。それがキリスト教道徳だという。
ニーチェの怒りは、この点に関しては、真っ当なものである。

私の思想。すなわち、目標が欠けている、しかもこの目標は個々人でなければならない!一般の傾向をみてみよ、いずれの個々人も犠牲にされ、道具として使われている。街路を通ってみたまえ、ゆきあうのはただ「奴隷」のみである。どこへ?何のために?(上巻 p270)

全一者は寸断され、全一者に対する敬意は忘れさられ、私たちが未知の全体者にあたえてきたものは、最も身近なもの、私たち自身のもののために取りもどされなければならない。(上巻 p322)


これは、ニーチェが、彼をその内部から支配していたキリスト教道徳というものと、とことん闘おうとしたことを意味している。
こうした徹底的な内在的闘争の姿勢が、ハイデッガー実存主義者たちのみならず、戦後のフランスの非マルクス主義的左翼思想家たち、つまりフーコードゥルーズデリダといった「ポストモダン」系の思想家たちにも強い影響を与えたのである。
ところが、これは以前から思っていることだが、日本のニーチェ主義者たちは、自分たちをやはり内部から支配している「奴隷道徳」であるところの、天皇制道徳というものと、まったく闘うつもりがないようである。これは、ニーチェが言うところの「畜群」の態度だ。
だいたい日本では、戦前からニーチェは大変人気のある思想家だったのだが、その理由は、こうした内在的受容が行なわれなかったこと、つまり天皇制道徳や、それと表裏の関係を成している武士支配の封建的道徳(強者の論理)との対決という形でニーチェの思想が受容されなかった、ということにある。
だから日本では、ニーチェが言うような「権力への意志」の肯定は、支配的価値観や制度を転倒することにはならず、逆に支配的権力を是認し、それに服従する生のあり方(実存の否定)を正当化する思想にしかならない。
次のようなニーチェの言葉も、そもそも「普通選挙」さえ満足に行なわれることが困難な封建的性格の強いわが社会においては、かえって現状容認の安易な態度をしか意味しないのである。

私は、普通選挙の時代において、言いかえれば、各人があらゆる人間とあらゆる事物を裁くことの許されている時代において、階序をふたたび樹立することを迫られている。(下巻 p375)


この状態は、戦前も今も、基本的に変わっていない。
バブル時代、「現代思想ブーム」と言われて、上記のポストモダンの思想家たちが日本で流行したのは、この意味で必然的であった。自己を支配する道徳や価値観との内在的対決を含まないニーチェ思想の受容とは、(帝国主義とか競争主義とかバブル経済といった)「強者の論理」に流されていく(ニーチェのいわゆる)「畜群」的生き方の自堕落な是認と正当化しか意味しないからである。
それはまた、明らかにナチズムの先駆となったニーチェの思想の一面(この一面を、ニーチェの思想の全体から切り離せるかは微妙だが)を、無批判に受け入れることにつながる。いま起きているのは、まさにそういう事態だろう。


また、もうひとつ、読んでいて印象的だったことは、ニーチェの考え方が、全体のために個が犠牲になるべきだという、ヘーゲルに代表されるような国家主義的・集団主義的なものとは異なる、いちおう別種の犠牲の思想だということである。
ニーチェはむしろ、少数の優秀な者たちのために、劣等な多数者や全体(類)が犠牲になるべきだと考える。それこそが、生の「過程」のあるべき姿だと、考えているのである。

根本現象は、無数の個体が少数のもののために、このものの可能化として、犠牲にされるということである。――欺かれてはならない。事情は民族や種族に関してもまってく同様であり、民族や種族は、偉大な過程を継続せしめる個々の諸個人の産出のための「肉体」を
形成するのである。(p204)


ニーチェの犠牲の思想は、類とか集団を第一義に置き、その維持・発展のために個の犠牲がやむなしとするような、共同体主義的とも呼べる考え方とは異質である。ファシズム・ナチズムや優生学的思想、あるいは新自由主義的な思想を、このようなベクトルで特徴づけられるものと捉えるなら、ニーチェの思想は、その見えやすい先駆ということになるだろう。
そして、これは当然ながら、エリート主義的な、また対エリート従属主義的(これは対外的には白人崇拝のようなものを意味するだろう)な、屈折した日本流「階序」の心性を正当化するものでもある。
強者におもねること、強者の論理に服従することによって、自らはその「強さ」と心理的に同一化し、仮想的に強者となり、そのような者として相対的弱者を加害することに虚ろな満足を覚えるというような、日本社会独特の心性が正当化されるのである。


ところで、このような日本的受容のあり方の問題点を別にして、ニーチェの思想をその本来の文脈のなかで捉えれば何の問題もないかといえば、やはりそんなことはない。
根本的に言って、ニーチェはたしかにキリスト教的な価値の秩序を転倒させたが、生を価値のよって定義する考えの枠組みそのものを批判したり解体したわけではない。
彼はあくまで、価値の思想、また犠牲の思想の枠内にとどまっている。
この点は、ニーチェを継承した上記のポストモダンの人たち、デリダは少し違う気がするが、フーコードゥルーズについても、やはり思考の大きな枠組みを批判することは出来ていないのではないか、という疑いがある。特に日本におけるその受容には、疑問が大きいのである。


だが、思想の全体的な評価はそうであっても、一人の人間としてのニーチェの思想的格闘には、やはり言語を絶するような偉大さと真剣さがあったと思う。
初めに書いたマキアヴェリの影響のなかでも、とりわけ印象深いものは、その「運命愛」の思想、つまり、これまでのキリスト教的人生観においては、あるべきでないもののように否定的に捉えられてきた生存の側面(病気や災厄など)を、生の「過程」を鍛え上げる(精錬する)ための不可欠の契機として捉え、肯定していこうとする態度だ。
ニーチェは、苦難に満ちた具体的な生の経験を否定せず、それがどのような生であっても、価値の創出につながるものとして(あくまでその限りで、なのだが)断固として肯定していこうとするのである。
そこには、その価値と犠牲のベクトルは別にして、自己の存在の意味を手放すことなく、個としての生を生き抜こうとする気迫が示されている。
こうした、生の肯定の態度は、無論、彼の永遠回帰の思想につながるものだろうが、僕はそれ以前のところで、生の困難な現実を否認も否定もすることなく、むしろ好機と捉えることで、形而上学的なもの、大きな支配の枠組みに捉えられることのない生の可能性を固持しようとした、「超人」ではないありきたりの弱く卑俗な人間としてのニーチェの生き様にこそ、勇気づけられる。

じじつ、すべての世界が今日では、以前には哲学者たちは、火刑の責苦と良心の呵責と傲慢な教父の知恵との間におしこまれて、いかにひどいめにあったものかと、嘆いてはいる。しかし、今日の生活条件のうちにもまして、まさにこのことのうちにこそ、強力な、包括的な、老獪な、大胆不敵な精神性を育てあげるいっそう有利な諸条件は、いぜんとしてあたえられていたということが真実なのである。(上巻 p455)


では、皆様、よいお年を、いや、悪い年をこそ!


ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

君主論 (中公クラシックス)

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