tu-taさんへのコメントにかえて

きのうのぼくのエントリーに、tu-taさんがたいへん丁寧な応答を返してくださった。
http://tu-ta.at.webry.info/200706/article_9.html
きのうの文章というのは、自分でも整理できていないところがたくさんあり、それを文章にしていくなかで、「どこが整理できてない」かということが少しわかってきた、というような内容だった。
tu-taさんの応答を読んで、さらに考えが絞れてきた部分がある。
それで、先方のブログにコメントを書こうと思って作文したのだが、字数制限がありうまく投稿できないので、思い切ってそのままこちらのエントリーに載せてしまうことにした。


以下は、その文章。

こんにちは。
たいへん丁寧なレスを書いていただいて、ありがとうございます。


いま、読みながら思ったことだけを書いてみます。
とくに、後半の部分について。
ぼくがあのエントリーで書いたことに、「核心的」な部分があったかどうかはわかりません。書きながら、それほど重要なことを書いていないのではないか、という気持ちがありました。ただ、書くことで整理された部分もあったように思います。
tu-taさんは、「自分は典型ではないのかもしれない」と書かれていますが、きっと「ひきこもり」の人も「典型ではない」ということだと思うのですよ。つまり、現在の社会のシステムに適応できていない、疑問や拒否反応を持ちながら生きている、ということです。そういう人たちは、「ひきこもり」のような個人的な反応を示すか、社会運動とか表現によって周囲を変えていくことを目指すか、どちらかになる。ただ、「ひきこもり」の場合も、その人の置かれた苦境を踏まえたうえでいえば、一個の生命としての「表現」とも考えられるので(つまり、それを受けてどうするかということを、ぼくたち一般の人間の側が迫られてると考えることもできるので)、この「どちらか」という区別も、便宜的なものということになります。
ぼくが、「典型である」と書いたのは、その「典型」を外れるようなところで、自分の生というか、自分が他人とともに生きているということを感受することの大切さということを言いたいわけです。
「自分の生を自分のものとして感じられない」、というぼくのような状態というのは、「典型」に閉じ込められているということを意識してるという意味では「解放的」であるかのように見えるけど、「自分のものとして感じられない」という形の「典型」に収まってしまうことで、他者や自分の生命の感受みたいなものを排除してるとも考えられるので、「そこから次にどう生きるか」ということが、一番大事になってくるのだと思います。
また話が難しくなりそうですので、続きは自分のところで考えます(笑)。


これからもよろしくお願いします。