再びベジタリアン考

先日、ベジタリアンの友人たち(ベジタブルズ、とでも呼んでおこう)と一緒に行動したとき、感じたこと。
肉や魚がダメで、野菜しか食べられない(もしくは食べない)。そうなると、外食のときのお店選びも結構たいへんである。今回、一緒に動いてみて、想像以上に探すのがたいへん、というか、めんどくさいということがよく分かった。
もともと体質的に受けつけられない、ということならともかく、いや、ともかくじゃなくて、その方がほんとに大変だというべきだろうが、まあそれは別にして、自分の意志なり感情なりでベジタリアンの道を選んだ人というのは、この大変な日常を生きることを選んだことになる。
その人自身が、それをどのぐらい苦にしてるかは分からない。それは自分にとっては自然なこと、というふうに言うかもしれない。でも、というかそれは、「大変である」「苦になる」そのこと以上に大事なこと、もっと大きな自由を得たい次元みたいなのを、その人が見出したということだろう。お店を選ぶのに不自由するという「大変さ」と引き換えでも、「ここでこそ自由を得たい、自由に生きたい」という生の次元、身体的な感覚みたいなものかもしれないけど、それを見出して大事にしていきたいという気持ちが、ベジタリアンという生き方につながってるんだ、きっと。
ということはつまり、肉や魚をふつうに、自由に食べてるぼくたちの日常というものが、その次元、その感覚のあり方から見ると、本当には「自由ではない」、どこか「あらゆるものを食べること」を強制されてる、みたいに感じるようになった、あるいはその感じを押さえ込むことがもう出来ないと思うようになった、そういうことだろう。
それが、「感覚」の問題なのか、思想や意志の問題なのか、人それぞれだろうし、ぼくには分からないことだけど。


この大変さには、いろいろ考えられて、今の日本やアメリカで、ベジタリアンとして生きるということは、消費社会にたてをつくみたいなものである。そして、ランさんも言ってた様に、その理由をいちいち説明しなくてはいけないというのが、いかにもしんどそうだ。このような身体や生活に関わることというのは、自分でもうまく説明できない、「思想」や「認識」のところは整理して言えても、それだけで言い尽くせないものが残ってしまうというのが、当たり前であるように思えるからだ。
それは、この社会のなかで、少数派になることを、みずから選択したということだと思う。面倒なこと、うっとうしいこともあるが、それよりも大事なものがあるという感覚を、どうにも捨てられない。それを大事にして生きるとすると、こういう形になる。
そんな感じなんじゃないかと思う。


ぼく自身はというと、肉や魚を食べることが、この社会のなかでは「強制されている」とか「誘導されている」という要素をもっていることに、それなりには気づいている。それでも、その回路みたいなところから、「肉や魚を食べない」という仕方で外れようとは思わない。思わないが、その回路に飲み込まれることも嫌である、つまりそのことにまったく無自覚・無批判になってしまうのが嫌だ。自分自身がブロイラーになったらたまらない。
だから回路から外れる可能性は、いつも保っておきたい。手前勝手な言い方になるが、「ベジタリアン」という具体的な他人の存在は、自分が作られた回路のなかにいるという事実を、強く自覚させてくれる契機でもある。これは、知識ではダメで、「具体的な他人」であるということが、結構重要と思う。
そしてベジタリアンの人たちも、ベジタリアンでない人たちに向って「回路から外れるべし」と迫る人、迫りたい人は、きっとそんなに多くはないだろう。そういうこととは違う次元で、多くの人はどうしようもなくベジタリアンになってるのだと思う。
「この社会のなかでも、人には、このように生きる自由もある」ということを、自分の身体で実践してる人たちのひとつが、ベジタリアンということではないかと思う。