動員される非労働とベーシックインカムへの不安

「働けない」とか「働かない」ということにより生じる状態、狭義には賃労働をしていないという意味で「非労働」と名指せるような状態をどう考えるか。
個人や「社会」のレベルだけでなく、政府にとっても産業界にとっても、これは大きな課題であり戦略目標となっていると思う。その最大の理由は、技術革新により労働力需要が不可逆的に減少しているということだろう。いわば、現在の社会構造はもはや、賃労働をそれほど必要としていない。だから、比較的単純な労働の低賃金化、不安定化には歯止めがかからない。少子化や景気の回復といわれる事態も、このことを基本的には変えない。
重要なことは、企業が必要とする労働力は、そのすべてが有償(賃労働)である必要はない、ということである。高い報酬を払っても確保しておきたい労働力は、数としては少数でよい。それ以外の労働力は、何かの事情で人手が必要になったとしても、賃金が低ければ低いほどよく、またコストがかからず、いつでも首にしたり配置換えをしたりできることが望ましい。
要するに、一番いいのは無償で(タダで)働いてくれることである。
そこで、「非労働」ということが見直されることになる。「非労働」が「非賃労働=社会奉仕、ただ働き」へと変換される方途が模索される。


そのひとつの方策として、ベーシックインカム基本所得」と呼ばれている制度を、公的な仕事への奉仕活動(ボランティア)などの「給付条件付」で導入する、ということが考えられると思う。
「公的な仕事では、企業の利益にならない」と思うかもしれないが、現在「公的な仕事」の多くは、派遣会社など民間の低賃金労働力によりまかなわれている。「公」と「民」の区別は、今後ますますなくなってくる。
企業、産業界にとっては、基本所得の導入と引き換えに「ただ働き」の人が多くなると、何が困ると考えられるだろう?
消費が停滞するということだろうか?たしかに、少額の基本所得だけで暮らす人は、ものをあまり買えないだろう。
また、よく言われるように、基本所得が保障されることで「労働インセンティブ」が下がって人々が働かなくなり、社会全体の「生産力」が下がるという心配もあるかもしれない。
だがこうした推測は、この制度の企業や政府にとっての魅力を減じることにはならないだろうと思う。


というのは、「基本所得」の保障といっても、いま推進論の人たちによって試算されている額は、月八万円程度であるという。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0210os.htm
しかも、その財源の一部は、現行の社会保障を大幅に削減することにより確保されるという。その状況で、月八万で暮らそうという人間がどれだけいるか?そんな人が大半を占め、日本が「穏やかな怠け者の楽園」になってしまえば、それはそれでいいことだとも思うが、この金額では到底そうはいかないし、人間はもっと欲が深かったり、社会への帰属意識やプライドや、変化を求めたりするものだ。「長期間にわたる無為」に耐えられるほど、多くの人間は強くはないし、消費社会や地域社会は生易しくない。
要するに、この制度が導入されても、多くの人は、それに自足せず、少しでも高い収入を望める仕事があれば、それに就こうとするだろう。だから、「生産力が下がる」ということは、あまり心配する必要はない。
消費についても同様で、商品が欲しいとか、ステータスを得たいというような、人間の攻撃的な気持ち、欲望は、安楽な生活に自足したいという穏やかな心理よりも、たいていは強い。というより、企業は必要ならそのように仕向けるはずだ。
そこで、起きることは、あまり競争が好きでなかったり、社会生活における能力や意欲に乏しいと自分でも感じている人たちが、基本所得をもらう条件としての「奉仕活動」に動員されるということである。
このことは、企業にとっても、労働力の確保(人件費無し!)という意味で望ましいし、政府・行政にとっても統合や管理の意味で魅力のあることである。すでに日本社会は、そちらの方向へ動き出しているようにも思える*1
この事態によって一番打撃を受けるのは、むしろ社会運動ではないかと思う。


もしこうした形で基本所得の制度が導入された場合、この社会では旧来の社会保障は削減されているのだから、何かの深刻な事情でほんとうに働くことの出来ない人(この定義が難しいのだが)、あるいは基本所得をもらう条件を満たしていないと考えられたり、それに適合できない人については、その立場は今以上に弱いものとされる恐れがある。
この人たちは、ほんとうに生存と社会的権利の外部に放り出されることになるかもしれない。
その人たちを救わねばならないとなったとき、たいていの人は「最低限の所得」は制度により保障されているわけだから、批判に本腰をいれにくいだろう。
しかも、今、本質的な制度批判が行える可能性のある人たちであろうと思う、上に書いた『あまり競争が好きでなかったり、社会生活における能力や意欲に乏しいと自分でも感じている人たち』*2は、「奉仕活動」へと統合されるなかで、批判する契機を失っていくのではないか。
このように、「条件付」という形で導入された場合、この制度は非常に大きな影響を社会(と社会運動)に与えると思う。


総じて、ベーシックインカムという制度の最大の意義は、就労困難な人たちの生存を保障するということであると考えるのだが、「多くの人の理解・同意を得るため」という名目で、あるいはコスト上の理由から「条件付」の給付という形にしてしまうと、それなりに方策が講じられたとしても、この根本的な保障の実現がなおざりにされる恐れが強い。
だからこれは、もし導入するのであれば、基本的には無条件で給付するということしかない。
そして、その導入自体には、ぼくはもちろん反対ではない。


一方、この制度のもうひとつの利点とされること、つまり多くの人が過剰な賃労働から解放されて、別の方向に時間なり生産性なり社会的な力なりを振り分けられる、といったことはどうであろうか。じつは、今の政権がすすめている、ボランティア社会の実現といった方向性も、それと基本的に変わらないのではないか、ということを、ここまで書いてきたのだ。
制度の変更によってするべきことは、ここではすべての人の生存の保障と、過剰な労働を強いる圧力の軽減ということまでだろう。そこから先、どんなふうにあるべき社会を実現するべきかということは、制度とは別の次元において考えられ、実行されるべきことだと思う。

*1:社会奉仕などの「条件を付けること」は、幅広く社会の多くの人の同意を得る(所得の分配について)ためだとよく言われるが、実はそうではなく、政府・行政や産業界のニーズがあるからではないかと思う。社会全体の同意は、マスコミなどを動員すれば簡単に得られそうな気がするし、得られなくても今の政権なら法案を通してしまうだろう。

*2:このことについては、別に書こうと思う。