意欲なき生は・・

前回のエントリーで紹介した論文に触発されて、自分なりに考えていることをメモ。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070524/p1


田原さんの例から言えること。
社会生活に対する自明性を持つことが「意欲」が生じることに関係しており、少なくともそこ(現在の経済的な仕組み)に向って「意欲」が動員されるための条件のようになっていて、そしてその「意欲」がなければ働くことができず、それによって生きるための財を得ることができない、という図式が見えてくる。


そうすると、ここで脅かされているのは、根本的には「意欲」ではなく、生存ではないか。


労働と生存とが、原則的には切り離せないもののようになっている、少なくともそうなりがちな世の中の仕組みというものがあり、これはやはり間違っている。
そして、そういう世の中の仕組みを正しいもの、疑う余地のないものとして受け入れなければ、十分な財を得るような賃労働ができない、というよりも「報酬」が得られるような仕事ができない、ということが一般的にはいえて、そしてその方向に圧力がどんどん高まっているのが現状だといえる。
「無根拠」さを無根拠と思わず、受け入れ、信じなければ生きていけない世の中になってきてる。


受け入れ、信じることによってだけ、そういう仕組みのなかで働くことが容易になる。
そこに向って「意欲」が動員される。
「意欲」は、この現在の社会で働いて生きていくための、重要な条件であり、手段のようなものである。
では、ほんとうに大事なのは生存であり、労働ができなくても、しなくても、それが保障されるということになれば、「意欲」は必要がないのか?そう考えていいのか?


労働(賃労働)から切り離して、「意欲」を生と直接にむすびつけて考えるとどうなるか。
「意欲」は生とともに、現在の社会システムに向って動員されているのであり、それを解放することが重要だ、という考え方。
つまり、意欲(欲望、生への意志)は生にとって肝要なものだが、それが特定の対象に(意図的に)結びつけられていることがよくないので、これを解放しよう、ということ。
これは、生産という言葉をきわめて広義にとり、ふつう考えられている「労働」という言葉の枠を越えて、生そのものと一体化するような考えでもある。


これは、生の解放、生産の解放という意味では、重要な視点だろう。
だが、こういう疑問が生じる。
「意欲なき生は、生きるに値しないのか?」
何らかの対象に向って動員されているにせよ、そうでないにせよ、生への意志を持つということと、生存そのものとは、異なるのではないか?そして、後者こそ重視されるべきではないか。



「意欲なき生」が、現実には死(生存の否定)を意味する場合がある。というより、根本的にはそうである場合が、大半だろう*1
しかしもし、生存そのものが労働から切り離されて保障されるということになった場合、「意欲なき生」の位置づけはどうなるだろう。
それを肯定することは、たやすい。しかしそれは、「自己決定」というような名目で、特定の人々の生命が、ある方向に導かれたり、封じ込められたり、そして消し去られることを、容認することにつながってしまうのではないか?
問題は、「意欲なき生」もまた、「意欲」と同様に、なんらかの動員の結果でありうるということであり、しかし同時に、動員に対する抵抗でもありうること、また、抵抗への抵抗でもありうる、といったことだ。


たぶん一番肝心なことは、「意欲をもつ」「意欲をもたない」という分岐点以前のところ、そういう「自由意志」のようなものが生じるための土台のような場所を、いかなる圧力や目論見による介入からも守るようにする、ということである。
「意欲なき生」の是認が、ある他人たちの利益のために行われてはならず、「意欲なき生」も、何らかの対象への「意欲」もまた、そうした「土台のような場所」の自由さのなかにおいてのみ、選択されるべきなのだ。
その場所を尊重するということこそが、他人の生存を尊重するということではないのか。


「意欲」の欠如を「貧困」としてとらえるという、というあの論文の筆者たちの問題設定は、そういう場所を守るための制度や仕組みをどう作っていくか、という考えと結びついているのだと思う。

*1:実際、前回のエントリーで、「野宿者の問題とひきこもりの問題は、深いところでつながってる」というようなことを書いたが、経済的な庇護者である親が亡くなることにより、「ひきこもり」の人たちの大半はすぐに生命の危機に直面するのだから、深いところもなにも、それらは直接に重なる事柄であるとも言える。