立岩真也『税を直す』

税を直す

税を直す


近年、この問題を繰り返し論じている立岩真也他による著作。
理論的な部分を立岩が執筆している他、詳細な試算と、豊富な文献紹介のパーツから成っている。以下では、立岩の執筆部分を紹介する。

論の基本線

民主党を中心にした新政権が発足したばかりだが、新たな政策の財源としては基本的に歳出のカット、つまりは無駄な支出と思われるものを極力削っていくということを方策としているようである。
たとえば評判の悪かった後期高齢者保険制度のようなものも、公的な健康保険の制度のなかでは財政的に限界に来ているのでそれに対処する苦心の策として打ち出されたものだったと思うが、新政権ではそれを廃止する方針のようで、その代わりに健康保険を維持する財源として何を持ってくるかというと、どうも「無駄な支出を削って」ということらしい。
民主党は消費税を当面上げないことを公約にしてるので、他にやりようもないのだというのである。
こうなると、本当に必要な公的支出まで「無駄だ」といってカットされ、生活がますます厳しくなることも心配であるが、それも我慢せよと言われるのだろう*1
しかし、財源難を克服して社会を維持していくための方策は、本当に消費税率のアップか歳出のカットしかないのだろうか。
そんなことはない、というのが本書の主張である。


日本では1980年代の後半以後、累進率の緩和による大幅な所得税減税を繰り返してきた。
この「税の累進性」を今よりも強くする、控えめに言えば減税のはじまった80年代中頃の水準まで戻せば、問題は解決するはずだ、戻すべきである、ということが主張されるのである。
それによってどの程度の税収増が見込めるかについては、一章を設けて詳しい試算が提示されている(村上慎司による。)。


ところで、この所得税の減税、累進率の緩和という政策がとられた大きな理由は、需要を刺激して経済を良くする、そのことが結果的に税収のアップにもつながる、そういったことであった。
だが現実にはそうはならず財政赤字の累積の加速を招いただけ*2であり、そうなること(経済的な成果の無さ、ロス)はこの政策を先行して行っていたアメリカやイギリスでもすでに明らかとなっていて、所得税増税などの政策変更につながったというのに、なぜか日本ではこの減税方針が維持され、90年代に入っても累進率は下がり続け、それに伴って税収も減り続けたのである。
本書では、こうした政策の明らかな誤り、すでに露呈しているマイナス面が論議や思考から排除され、格差と財政赤字だけが暴走的に膨らんでいった事態の異様さが、当時からの膨大な文献資料の引用を交えて分析され検討されていく。


ところで主著者である立岩のスタンスは、基本的には、財は稼げる(生産できる)者が稼ぎ、必要な者が取る(使う)ということである。『働く人は働き、とる人はとる』という簡潔な言葉によって、それは示される(これは主著『私的所有論』でも書かれていた基本的な概念だ。)。
市場で生じた個人間の財の分配の歪みを是正する、つまり再分配の方法として所得税の強化はきわめて適切なものである、とされる(「税の再分配機能」)。
たとえば医療保険や年金についても、各人が拠出(積み立て)によって各々のリスク(病気・怪我や老後)に備える「保険」という発想は、公的なものとしては否定され、「税」による再分配によって対処されるべきだ、ということになる。
著者は公的な医療保険を必要のないもの、保険なら民間保険で十分であると言い、国家が行うべきなのは税による再分配(による保障)である、とまで言うのである。
このような国家であれば、行政にかかるコストも極小で済むだろう。そのような国家のあり方を、「分配する最小国家」と名づける。
まとめると、基本的な方向としては、市場の活動によって社会に生じた財のばらつき、凹凸を再分配によって正していくことが善いことであり、そのためには国家による(広域的な)税の徴収と再分配という方法がきわめて有効だという考えであるといえる*3

議論

そのうえで、「それ(税の累進性の強化)は経済を悪くするものだ」という意見に反論していく。
まず、「増税は消費を減退させることにつながる」という意見については、市場において(資産や遺産を含めて)多くを得ている人から多くを税としてとって、それを再分配するということは、金を減らすこと、消費や投資に使われるものを減らすことを意味するわけでは、まったくないということが述べられる。

税として得られたものの多くは、私たちの案では、所得保障というかたちで個々人に支払われ、また社会サービスの仕事で働く人に支払われる。つまり消費する権利――投資することも含め、お金を使う権利――の一部が、ある人々から別の人々に移動するだけである。とすれば、生産・消費が停滞することにはならない。(p45)


また、こうも書かれている。

消費を増やすべきという主張を受け入れるとしよう。ならば、今困っていて、すぐに使ってもらえる人に直接に渡すのが最も効果的である。(p20)


また、よく言われる反対意見に「税の累進性の強化は、労働のインセンティブを下げる」というものがある。
頑張って稼いでも税金で持っていかれるなら、誰も働かなくなって生産も経済も衰退する、という意見である。これには、次のように反論される。
理論的にはよく知られていることだが、累進率の強弱は労働量の増減と一義的には結びつかない。つまり、累進率を下げて減税することでより働くようになるとは言えないし、逆に累進率を上げて増税したからといって働かなくなるともいえない。
たとえば減税によって、今までより少ない労働でも同じ(これまで通り)の収入が得られるとなった場合、多くの収入を求めて(やる気が出て)より働く人も居るだろうが、その浮いた時間を余暇に使うという人も出てくる。後者の場合、労働の総量は減っていることになる。これがどちらに出るかということは決めがたいのである。
実際、かつてのレーガン減税(累進率を緩和した)においても、所得税の減税が労働供給の増加に結びつくという(期待された)結果はもたらされなかったらしい*4


逆に増税によって今までより多く働かなければこれまで通りの収入が得られなくなった場合にも、それでインセンティブをなくして働くなる人もいるかもしれないが、もっと働いて収入を維持しようと思う人も当然多いだろう。
こうして一般的には、税の増減、とくに累進率の強弱が、労働量(供給)に一義的に結びつくとは考えにくいのである。


さらに、「累進率を緩和すれば、海外から富裕層が移住してきて税収増につながる。逆に強化すれば、富裕な人(高額納税者)の海外移住や、税金逃れを生み出し、税収減につながる」という意見もよく言われる。
これは、法人税の問題とも重なる意見である。
これについては、基本的には次のことに注意がうながされる。
つまり、税率を下げるということは、いくら海外から金持ちが来ても、少ない税金しかとれないということである。そして、これまで税金をとってきた多くの国内の人たちからも、これまでより少ない税金しかとれなくなる。したがって、この面だけに注目すれば、これは財政の悪化をもたらす危険性がある。これが、累進率の緩和、所得税減税ということのデメリットである。
実際、今や現実に起きているのは(特に法人税をめぐる動きだが)、資本や人の海外流出を恐れるがゆえに、各国が値下げ競争ならぬ税下げ競争のような状態に陥って、税収の減少と財政の悪化に苦しむに至り、そこから抜け出すために「協調」によって税の低下に歯止めをかけようとする動きであるという。
その一方で、上に書いたようなこの政策のメリットというものもあり、それならば、メリットとデメリットを並べ、差し引きしてどうなのか、という議論が行われなければおかしい。
それが、たいていは減税策のメリットについてしか語られず、こうした税制が無条件に合理的な政策であるかのように主張され流布されてしまう。
こうした言説の空間の歪みのようなものを、著者は鋭く批判するのである。



再び基本的な問いかけ

最後に、上でも少しふれた主著者立岩の基本的な考え方がよく示されていると思われる部分を引いておく。
彼は、(とくに)日本ではここ数十年、課税の負担をめぐる議論において、「受益者負担」「保険」という物言い(つまり、自己責任、という風なことだろう)と、「公益」のための「義務」という物言いとが、強い力を持ってきたことに疑問と異議を投げかける。
それによって、「より大きな経済力を持つ人はより多く負担すべきである」という主張が、認められるときにもそれと同時に、「より小さな経済力を持つ人はより少なく負担すべきである」という命法を導き出してしまい、たとえば所得税をとるための最低限度を引き下げる(困窮者にも応分の負担をさせる)というような発想につながってしまうからだ。
このジレンマに直面して、立岩はこう考える。

他に何があったのか。なくなったのか。それは「搾取」といった言葉に集約されるような考え方、感じ方だったかもしれない。
 自分はこの社会においてたしかに賃金を受け取っている。けれども、それは本来受け取れる額よりも少ない。ならば、その少ないところから、さらにこの社会に拠出することは不正である。むしろ自分たちは受け取る側であり、受け取って当然である。このような考え方がなされなくなっていたことと、少なくなってきたこと、これらがこの国に限らず、この間に起こってきたことに関係しているのではないか。そして私たちは、その代わりに、いつのまにか、最初の二通りのいずれか、あるいはいずれについても、その言い方がもっともであると思うようになっているのかもしれない。
だから、ひとつひとつの論点というより基本的なところから確認しておく必要がある。するとそれは「搾取」という言葉を、ただ以前と少し異なった意味で、使いなおすことにつながるかもしれない。(p97、太字強調は引用者。)

こうした箇所は、われわれ読者の生活上の考え方の、根底に触れてくるような部分である。
なにしろこの本で批判されているような言説の歪みを、なんとなく受け入れ流通させてきたのは、われわれ自身の知性と感性の責任でもあるのだから。
さらに、次のように述べられる。

(前略)基本的な考え方としては、各自の生活の水準が大きく違ってよい理由はない。むしろ違わない方が望ましい。そして正当化される受け取りの差異は、とくに労働における労苦に対応した差異であり、やむをえぬものとして是認されるのは、人々を適切に労働に配置させる動機付けとして作用する差異である。
 その結果、働かない/働けない人の受け取りは「最低」にならざるをえないのではあるが、それは食費や医療費やそれぞれの最低限の必要を積算した結果としての最低限でなければならないのではない。ゆえに、まず課税最低限は、公的扶助の額に設定される必要はなく、それよりも高い水準になる。
 そして多くの人は、賃金を得るにせよ、得ないにせよ、働いている。自分のために働いている。他人のために働いている。それは、税を払うことによってなされること(義務を果たすこと・貢献すること)と同じである。(中略)すると、受け取りの部分について多いところから少ないところに移転するのでかまわない。このように考えれば、多くの人は税を払う必要はないということになる。(p99〜100、太字強調は引用者。)


この本の主張は、現行の国家の存在をある意味で前提した、社民主義的なものといえるだろうが、にも関わらず、あるいはそれゆえに、われわれ自身の根底を問うという意味で、たいへんラディカルなものを核心に持っていると思う。

*1:すでに地方自治のレベルでは、そういう話になっている。

*2:財政赤字の累積が、よく言われるように重大な問題かどうかについては、ここでは置く。

*3:付言すれば、税や社会保障における「分権」については、地域間の格差を拡大しかねないものとして、著者は否定的に考えているようだ。

*4:付言すると、それでもこの政策は需要面の効果、つまり消費の増大による景気回復はもらしたではないかという意見もあるが、これも低所得層の減税を行えば、もっと効果があったかもしれない、という説もあるようだ。いずれにせよ、レーガン減税は巨大な財政赤字をもたらす結果となった。