労働の魅力とは

この本を読んでるけど、面白いし読みやすい。ただ、紙質の薄さにはびっくりだ。

所有と国家のゆくえ (NHKブックス)

所有と国家のゆくえ (NHKブックス)


このなかで立岩は、所得と労働とは切り離して考えられるべきだとした上で、国家による所得の分配(たぶん、ベーシック・インカムみたいなこと)ということ以外に、生産財と労働の分配もあわせて行われるべきだという持論を述べている。
生産財については、ぼくにはよく分からないのだが、労働の分配について。
立岩の発言から。

所得保障はするが労働市場そのものはいじらないってことでよいかと、ぼくの場合は順番に考えます。そうすると、よくないんじゃないかってことが言えそうだ。その理由はいくつかあって、その一つは今の話でいえば、主体って話です、人間は働きたい、ところもある。金さえもらえれば別にいいんだって割り切り方もある。それもありつつ、労働というのは確かに労苦でもありますが、同時に何かしらしたい部分てのがあったりもする。(p147)

これには対談相手の稲葉も、

(前略)でも、それだけじゃ足りないよ、人間は働くことそれ自体からも満足を得るので、働けない人には所得を保障すればいいんだということではたぶんないんだよ、というようなことまでもカウントに入れた理論、あるいはその理論にもとづいた社会構想をぶちあげることはとても有意義なことだろう。(p152)


と応じている。


しかし、なぜとくに「労働」なのだろうか?
「主体」が社会への参加とか貢献の感覚を得るためということなら、ボランティア活動とか、それこそ政治的な「運動」でもいいはずである。また、芸術やスポーツのような表現活動というものもある。貢献の感覚や社会的な自己実現をどういう活動の場で実感するかということは、ふつうに考えれば、その人が「社会」というものをどのように意識しているかによるだろう。「仕事」(賃労働)よりも、他の活動にこそそれを見出すという人は、少なくないはずである。
所得の分配にプラスアルファされる何かを得るために分配される社会的な活動の場は、なぜ「労働」でなければならないのか。「労働」には、他の活動とは異なる、人間の社会性にとって特別な要素があるのだろうか。


考えられるのは、まさにそれが市場での「売る/買う」という行為に関わっているということである。
労働を通して自分が作ったものが商品として売れることにより、つまりお金に換わることによって、その人は社会のなかで広く「認められた」という感じをもつ。また、そういう技能や能力を持つ人間として契約し雇われることにより、やはり社会から広く「認められた」という歓びのような感じをもつ。
これが、「労働」が人間にとってある特殊な魅力をもつ活動であることの中味である。
(趣味としての)芸術やスポーツとやや異なるのは、ここに「お金」が介在しているということで、それにより、この人は「社会全体」から薄くはあるが広く、一般的に承認(評価)されたという感情をもつことができるのだ。
これはもちろん、錯覚(幻想)には違いないだろうし、それだけが自己の存在が他人から承認される唯一の形式であるかのように考えられてはならない(そう考えられがちだ)ものではあるが、しかし非常に有意義な一形式であるような気がする。
有意義だというのは、コンビニエンスだということだ。
特別な才能や魅力や政治力がなくても、「労働」をとおして、多くの人は社会のなかで自分を確認できる(この場合の「社会」というのは、結局「市場」ということだが)。
そして、この点が大事だが、その社会参加の代償として、特別に強固な集団への帰属を要求されることもない。いや、「本来はないはず」なのだ(新自由主義の社会には当てはまらないかもしれない)。
ぼくは、それが特権的(神秘的)な位置を占めないなら、「労働」(賃労働)というツールが、人間と社会とを結びつけるひとつの仕組みとして機能することは、悪くないことだと思う。「労働」(賃労働)が、全体への「奉仕」に置き換わってしまう社会よりは、よほどよい。