辺野古・戦場

事情があって、インターネットを落ち着いて見る時間がなかなかないのだが、いま一番気になっているのは、やはり辺野古のことである。
今回は、自衛隊の艦船も現地に派遣され、非常に大がかりなことになっている。
http://henoko.jp/info/


きのう、日曜日のNHKののど自慢は沖縄からだった。
テレビで見ていると、基地や辺野古でのことなど何も起きていないような和やかな雰囲気に見える。
こうしたことの、沖縄の外部からの視点では容易に語れない複雑な様相については、以前にも少し書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060414/p1


基地のこと、辺野古の状況について、現地で生活している人たちの、さまざまな立場があり、言葉に出来ないようなさまざまな思いがあるだろう。
しかしともかく、そこに基地はあり、海岸は造成され、漁場が奪われ、そして自衛隊の艦船も派遣される。
その現実と、報道される「日常」との距離を、どう考えればいいのか。


だが考えてみると、これはどこの土地でも同じことかもしれない。
ブラウン管に映し出され、ぼくらがそれを目にして、変わらない平和な日常であると思い安心するのは、ぼくたちが生きている現実そのものと同じではない。その映像に、ぼくらの姿が映ってたとしても、何かを話したり歌ったりしていたとしても、それは「テレビ用の現実」だ。
実際には、局所では、戦場のような毎日があるといえる。それは、基本的には、現在の社会の仕組みによって作り出されている戦場だ。
だが、それが戦場であり、自分たちが戦場のような現実に生きることを強いられており、同時に他人にもそこで生きることを強いている*1のだと自覚したのでは、少なくとも自覚し続けたのでは、毎日を生きられない。
だから、その現実に蓋をする装置が色々と要るわけだ。テレビなどのマスコミも、そのような機能を果たす。


たしかに、この現実を変えることは、容易なことではない。
しかし、この現実が、所詮作られたものであり、それを世界と生の自明な姿であるかのように思い込ませようとする力が働いていることを、意識することは可能だし、そのことに小さくない意味があると思う。


現に戦場は、身を隠しきれず、すでに色々なところで姿をあらわし始めている。

*1:たとえばとくに、基地を受け入れるか、経済的苦境に留まるかというふうな選択を迫ることで