『若者の生活と労働世界』から、湯浅・仁平論考に関して

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

この本の最終章、『若年ホームレス 「意欲の貧困」が提起する問い』(湯浅誠/仁平典宏)と題された章が、ぼくにはたいへん刺激的だったので、内容を紹介してみます。
なお一部分、ぼくの解釈が混入しています。できるだけ原典に当たってください。


この章では、「意欲の貧困」という言葉が重要なキーワードになって論が展開されている。「格差」や「不平等」でなく、「貧困」こそ今の日本の問題である、という言い方は最近よく目にするようになったが、一般にはたいてい心理主義的ないし道徳的に語られる労働に関する「意欲の欠如」という事柄を、その「貧困」の一種として位置づける試みは、はじめて目にした。
一般に「ニート」などをめぐる言説は、擁護的なものであっても、「ニートの大部分は、働きたいと思っている」というふうに「じつは働く意欲がある」という形で、この人たちを救済しようとするものである。これは、この章のタイトルである「若年ホームレス」と呼ばれる人たちに関しても同様だろう。
だが論者たちは、そうした言説によっては『「働きたくない」という語り、あるいは、「働きたいけど、働きたい・動けない」という了解困難な・不気味なもの』をすくいあげられず、例外として残してしまうことになると考える。
問いかけは、こういうものである。

(前略)「働く意欲」によって両者を分かつ分割線は、そんなに強固なものなのだろうか。生の可能性を縮減されるただなかで、「でも働くしかない」と思うことと「もう働けない」と思うこと、あるいは「働きたいと思い、体が動くこと」と「働きたいと思っても、体が動かないこと」とのあいだには、いかなる違いがあるのだろうか。むしろ、縮減される生のあり方自体を直視する視点が、言い換えれば「働く意欲があるが仕事がない」生と「例外」として病理化される生の両方をともに(原文は三文字傍点 引用者)産出する構造自体を、包括的にとらえる視点が必要とされているのではないだろうか。(p331)


ここで、事例として紹介され、検討されているのは、いわゆる「生活困窮フリーター」である田原さん(仮名)という35歳の男性だ。田原さんは中学卒業後、さまざまな職を経験しながら、野宿生活の経験もしてきた。
この人は、困窮して所持金も底をつき、NPOに相談に訪れる直前、ハローワークなどを通じて三ヶ月ほどの間に産業廃棄物処理場など四箇所の面接を受け、いずれも採用されるのだが、「自分についていけるとは思えなかった」という理由で、すべて一日で仕事をやめてしまっている。こうした場合、この人には「働く意欲がない」と判断されるのが常だろう。
だがこの論では、そもそも「仕事に就く」ということがどのような体験であるかということが、現象学的ともいえる観点で再考され、田原さんが初日に各々の仕事場で経験したであろう状況を考慮した上で、次のように語られる。

(前略)言いたいことは、職場に飛び込んだ初日に未経験者でも簡単にこなせるような「仕事」などというものはおそらくなく、それゆえ「自分は、いずれこの作業を無難にこなせるようになり、ここの人たちともうまくやっていける」と感じることに実は根拠がなく、それでも多くの人たちはそう信じて、現実にその未知へのダイブを遂行している、という事実である。
 ではなぜ、多くの人たちは根拠もなく「できるさ」と思えるのかと言えば、それは「やったことがなかったけど、やってみたらできた」という成功体験を生育過程で育んできたからだろう。その機会は、家庭・地域・学校・以前の職場のどこか、またはそのすべてでくり返し提供されてきたはずである。逆に言えば、そのような機会に恵まれなかった人がどうがんばっても「できるさ」とは到底思えなかったとしても、それほど不思議でも奇妙でも、またありえないことでもない。(後略) (p338)

「どう考えても自分にはついていけない」と感じてしまうことは、おそらく田原さんにとっては病気で体が動かないのと同じくらい自分にはどうすることもできない、コントロール不能な事態ではないかと推測するが、それは多数者の仕切りと合致しないがために、負の符牒を背負わされて、「甘え」や「気合い」の不足といった根性論へと還元される。 (p339)


前段の引用文は、現象学というよりヴィトゲンシュタイン的とも思える考察だが、多くの人が根拠のない「未知へのダイブ」を行うことで職業(社会)生活を営めるようになる、営んでいるというのは、たしかにその通りだろうと思う。
それがなぜ多くの人には「自明のこと」と感じられているのかといえば、そういう「成功体験」を経てきたから、としか言いようがない。だがそれは、もともと「根拠のない」ものであるから、何かの理由でそうした体験を「自分のもの」とする条件を十分に得られず生きてきた人にとっては、いつでも容易にこの「自明性」は失われる。そのことが、上記の「働きたいけど、働きたい・動けない」という、つまり「働く意欲がない」とされる状態をもたらす。
実は、表面には出てこないが、そういう「条件を十分に得られず生きてきた」人は、「普通の」職業人のなかにも結構おり、そういう人たちが「突然、ホームレスになる」確率が高いといえるかもしれない(これは、この本の論者の主張ではなく、ぼくの考えである)。
ともかく、そのような、社会生活を自明のものと感じられるための「条件を十分に得られ」なかったということは、その人が社会的な資源を十分に得てこなかったということだと、考えられる。
「意欲」を、個人的・心理的・道徳的な問題ではなく、「貧困」という非個人的で社会的・政治的な対処を必要とする問題として位置づけるという本論の試みは、ここに関係する。


それは、こういうことである。
まず、「貧困」は、経済的貧困だけに限られるべき概念ではない、とされる。
ここでは、「溜め」という語が用いられているが、要するに人が社会のなかで生きるためのバリアー、卵や生体を守る膜のようなものが必要であるとされ、その「溜め」が失われていること、剥奪されていることが、「貧困」の定義となる。
「溜め」には、貯金のような経済的なものもあれば、家族や友人関係のような人間関係面の資源もある。また、社会制度によって保障されるべきものもある。そして、上記の「自分でもやれる、やっていける」という社会生活への「無根拠な自信」のような精神的な「溜め」も重要なものであるとされる。
そうしたさまざまな「溜め」が十分に得られていない状態にあるとき、人は社会のなかに十分な資源がなく投げ出されているわけであり、その状態自体を「貧困」と呼ぶのだ、ということである。


ここから、論は制度論的な方向に一度展開し、戦後の日本社会においては、企業福祉と家族福祉によって稼動年齢層(おもに成人男性)に対する社会的な保障が行われるというシステムが機能してきたが、現在起こっているのは、そうした社会保障機能の急速な低下であることが論じられる。
つまり、国の政策の一部として、『間接的には国家の庇護下にあった』といえる状況のもとで企業と家族という二つの装置により制度的に「溜め」を保障されてきた「稼動年齢層」の人たちが、今やそうした「溜め」を失って社会のなかに投げ出されている。それが、現在の「貧困」の実態である、ということになる。

生活困窮フリーターを含むワーキング・プアの問題とは、企業福祉と家族福祉の機能低下にもかかわらず、国家の社会保障機能がそれに対応できていない、という社会構造的な陥穽を忠実に反映した問題であり、かつ、企業・家族・公的いずれの福祉からも排除されて自分自身の排除へと至りやすいいまの社会状況は、人々をストレートに貧困、さらには自殺へと落とし込めやすいシステムとなっている。(p347)


「意欲の貧困」の問題に戻ると、

そしてその「意欲の貧困」は、心理主義的なまなざしではとらえられない構造的な諸条件によって産出されていた。通常、働くということは、実は「根拠のない自信」という意欲・意志の外部によって支えられており、その「根拠のない自信」は、失敗が存在の危機へとつながらないさまざまな“溜め”――つまり親密な社会関係や社会保障(家族・企業福祉・公的福祉)に支えられている。それを担保していた家族、企業、公的社会保障が脆弱化していくなかで、“溜め”が剥奪される状態が生じうる。ここが、「意欲の貧困」が生起する場所である。(p355)


こうして、「意欲」の問題を、「貧困」という非個人的・社会的な文脈のなかに据えて語ることは、この問題のもつ個人的・心理的な側面を捨象してしまうのではないかとも思われるだろう。
実際、本論において、この問題を考える事例として出されたのは、一般にわれわれが考える「経済的貧困」とか「野宿者」のイメージに近い来歴を持つ人であり、これと「ニート」という言葉から一般にイメージされる「働こうとしない若者たち」の事例とは同列に語れないのではないかという疑問は生じうると思う。
だが、上記の引用に付された「注」では、こう書かれている。

これは、たとえば、経済的に困窮していない家族と住居をともにしながら「意欲の貧困」状態にある――ときに「引きこもり型ニート」等と呼ばれる――人々の問題を過小視するものではない。本章の「貧困」概念を導いたセンは、財の有無とともに財との関係性を重視する。つまり、家族やお金などの“溜め”があると「外」から観察されたとしても、それらと適切な関係が得られておらず、そこに存在の居場所(home)がない(less)と感じられているのなら、実質的にその“溜め”が<ある>とはいえない。これを踏まえるなら、前記のケースの「意欲の貧困」も、複数の「排除」状態との関連のなかでとらえられてよい。この点については、さらなる考察が必要である。(p360)


付言するなら、いわゆる「ひきこもり」の問題を考える場合にも、上記p338前後で語られていたような、「社会」生活への「未知へのダイブ」、「自明性」の欠如といった観点からのアプローチが重要であることは、既に当事者によって述べられてきたと思う。
田原さんのような事例は、誰にも潜在していて「溜め」がなくなればいつ露呈してもおかしくないその深淵が、何かの理由で露呈しやすい条件で生きることを余儀なくされてきた人たちの問題であるともいえる。そして、そういう人たちは、精神的な意味でも、経済的・社会的な意味でも、今日たしかに決して「少数ではない」。
おそらく、現実の社会において、人が生きていくために必要十分な「財」(資源)とはどのようなもので、どのように得られるものであるのか、それは「今日の日本社会の」という範囲を越えて、「生」や「社会」という言葉の枠組み自体を問い直すようなものとしても議論されうる課題であり、その意味においてこそ、「引きこもり」や「引きこもり型ニート」の問題と、「貧困」一般、とくに「野宿者」になりうる人たちの問題とは、言うまでもなくつながっているのだと思う。
そして私見によれば、そのつながりの場所を考えるにあたって、この論で提示されている「溜め」という概念は、たいへん示唆に富むものである。
それは、この言葉が、主体の意志(意欲)によってだけでは生きられない、というよりも、そういう仕方でのみ存在することを本質とするわけではないものとしての、われわれの存在の有り様を指し示しているように思えるからである。


「生」、「意欲」、「主体」といったことについて、またできれば他のことについても、もう少し考えたかったが、論文の紹介という範囲を明らかに越えてしまうので、今日はここまでで終わります。